ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

偲ぶ会

 先月外国で急逝した友人の偲ぶ会が吉祥寺であった。とてもたくさんの人たちが集まっていた。こちらにも書いた様に彼とはもう40年近くにわたる知り合いだったのに、何人もの人たちの語る彼を聴いていたら私は彼のことをほとんど知らなかったのだと気がついた。彼は自分の仕事のことをほとんど話さなかった。年に2回くらいの集まりでもワァワァとうるさいわれわれの仲間の中にありながら物静かにパイプをくゆらせていたり、ギターをつま弾いていたり、はたまた酔って寝ていたりしてほとんど自分のことを話さなかったからおおよそのことを知ってはいても微に入り細に入り聴いたりはしなかった。では知らなかったことが残念かと云えばそんなことはなくて彼のその人となりは私にはとても快適だったのだし、安心できる存在だったのだから、それはそれで良いのだ。そういえば私の周りの友達は自分の仕事を友達だからといって結びつけようとする人は全くいない。しかし、それだからこそ残った友人たちなのかも知れない。
 彼は享年59歳にして逝った。あっという間の人生だったのではないだろうか。もっとも私達に残された時間がどれほどなのか分からないけれど、それほど大した年数ではない。大差はない。今のうちに逢える友人にはたくさん逢っておかなくてはならないなぁと思う。
 先日あるホテルでランチのバフェを食べたのだけれど、そんなバフェを遥かに超えるメニューが並んだ偲ぶ会だった。「彼が好きだった」としてソース焼きそばと餃子も並んでいた。毎年彼を交えてやっていたBBQの会は最後は確実に大量の野菜を炒めてソース焼きそばを作っていた。全く例外なく作っていた。ということは彼は毎回喜んで食べていたんだなぁと思った。
 彼とデュエットを組んでいた友人が1970年11月に開いたライブのプログラムを持ってきた。当時は「ライブ」なんて云う言葉は普通ではなくて、これもプログラムを見ると「コンサート」と書いてある。彼らのデュオの名前は「男の世界」となっていて、当時流行っていた男性化粧品のマンダムのコマソンを彼らは得意のレパートリーのひとつとしていたのである。そういえばいつでも彼らが揃うとまわりがひとつ覚えに要求して彼らは唄わされていた。もうひとつのプログラムもあるのだけれど、それには肝心な日にちと会場が全く書いていない。しかし、表紙に手書きの銀座の地図が書いてあってそこには朝日新聞社屋が書いてある。あの「天金」も書き込んである。これで見るとどうやらすずらん通りの7丁目か8丁目辺りになる様だ。昔は5丁目の表通りにあったらしいことは検索すると分かる。このころのこうしたプログラムは勿論ガリ版刷りなのだけれども、かなりの部分を自分がガリを切ったことは文字を見ると分かる。
 あれっ!彼の名前が間違っているじゃないか。今頃気がついた。