ほぼ足りてまだ欲 その先

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話がへた?

 竹原信一という鹿児島県阿久根市長といえばブログにいろいろなことを書いては様々な波紋を起こしている人として広く知られているけれど、例の障害者に対する発言から以降、どうもマスコミ報道を見ていると自分を批判するものはすべて誤解らしくて、決めつけだそうで、それに対して説明は全部しないんだそうだ。こういうタイプの人というのは昔からいるけれど、この人は何か大きな考え違いをしてしまっているようだ。もしくは自分が引き起こしたことを収拾するという能力が欠落してしまっているんじゃないだろうか。一種の破滅型かも知れない。
 昨日の朝日新聞電子版によるとそんな中、福岡で講演し、ウクレレを持ってきて牧伸二風の替え歌を歌ったらしい。ちょっと長すぎるような気もするけれど、部分的に引用しても問題があるかも知れないので、朝日新聞の記事の後半を引用しておこうと思う。

「この間の障害者の件で、差別と言われるが、ああいう視点は私にはわからない。命は一つだと思っている。人間も動物も地球も。そういう感覚がある。なんでああいう言い方するのか。考えていくと、みなさんは生と死をわけている。今までたくさんの人が生まれて死んだおかげでみなさんがいる。みなさんもいずれ死ぬ。死と生が一体」

 「植物を考えればわかる。葉っぱや花が散って土壌になり、木を育てる。私たちは葉っぱ、枝。その中で、権利とかいうことで、より多く自分のところに養分よこせと言っている。たまたまいろんな役割をしているのに。葉っぱは葉っぱ、枝は枝。人生は金取り競争ではいけない。勝ち組、負け組を分けられない。生ごみ残して死ぬだけと、なんで了解できないのか」

 「社会は木を育てるようにしないといけない。木の枝の先くされば切り落とす。そうしないといけない。全体として活力ある状態に。ゆうべ、日テレで『アラームにかこまれた命』というのをやっていた。*1 NICUで未熟児で障害児が生まれてしまった。それをどんなことしても生かす医療システムがある。のどにも胃にも穴をあけて、24時間見張る。栄養はチューブで入れる。そこで2年間。病院の扱いがひどくて、お母さんが家につれて帰る。お母さんは眠れない。2年半も。そういうことやっていいのか。それを止めるのは殺人となる。私のところに今回の件でメールがきた。こういう状態の人から。疲れて寝てしまった間に死んでしまったと。そういうのがけっこうある」

 「要は、社会をつくるということは、命の部分にふみこまないと駄目。表現としてきびしいが刈り込む作業しないと全体が死ぬ。壊死(えし)した足は切り取らないと。それで全体を生き残らせる。誰も踏み込まないから、命が失われつつある。それが今の政治、社会の現実。情緒で社会をつくることはできない」
Asahi.com 2009年12月21日22時50分)

 この彼の発言の真意を私はどう読み取れば良いのだろうか。私には彼がいっているのは「枯れたところは切りすて、それが肥やしになって残ったところを生かすことができる、つまりそれぞれの役割がある」という意味に取れ、それは障がいを抱える人はそうでない人たちの負担にならない人生を送ればよいのである、という主張に聞こえる。
 そしてそれは優生保護主義に聞こえるのだけれど、もし私の解釈が間違っているのだとしたら、彼は市政の首長として万民が理解できるような方法で説明しなくてはならないはずだ。
 そして彼は阿久根市の市民だけの公的立場ではないということに気がつかなくてはならない。「市長」という立場は日本全国、全世界に対してもパブリックな立場に立っているということだ。
 確かに私が暮らしている東京都にもひとり、その辺の立場を全く理解できていない首長がいて大いに私は恥ずかしい思いをしているのだけれども。

*1:NNNドキュメント'09」 12月20日放送分「アラームに囲まれた命NICU…医療と福祉のはざまで」札幌テレビ制作 この番組の趣旨はNICUから出て行くべき先が整備されていないという問題。