ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

中学時代

 私は中学一年を終えてから、それまで暮らしていた静岡県の清水から神奈川県の横浜に戻った。1961年の4月のことだ。
 一年間電車で通っていたのは私立の大学の附属中学で、今はもう校舎も移動して名前も変わってしまったから繋がっていないんだけれど、ベビーブーム世代なのにひとクラスに30人ほどしかいなかったけれど、上の2学年は3クラスなのに、私たちの学年は5クラスあったような記憶がある。それはそれはのんびりとした学校で、今から考えると施設もなんともお粗末なもので、体育館らしきものもなく、足りない教室は鉄筋校舎の後ろに建っていた今にも崩れ落ちそうな木造校舎だった。クラスの仲間ものんびりしていて、学校の帰りに近所の田甫に鮒を捕りにいったりしていたんだから、そののんびりぶりは相当なものだ。
 そこから今度は各クラスにほぼ55人もの生徒がいて、それが16クラスもある東京の公立中学に転校した。1学年で900人近い生徒がいた。当然に教室は足りなくて、それでなくても狭い校庭を二階建ての木造校舎とこれまた二階建てのプレハブ校舎が取り囲んでいた。
 なんでか知らないけれど、この学校は新学年が始まるとともに、二組合同で行われる体育の授業ではやたらと行進訓練ばかりやらされた。「ぜんたぁ〜い、止まれ!」一、二、で止まる、とか「右向け、前進」とか、全体が号令ひとつで動く、という訓練みたいなものばかりだった。こんなことをやらされたことは多分この学校に来て、生まれて初めてだったような気がする。そんな程度のことしか、この狭い校庭ではできなかったのかといえばそんなことはなくて、9人制のバレーボールでクラス対抗をやった記憶があるけれど、確か2年生の時は一回戦で負けてしまった。
 ところがこの行進訓練を私はイヤじゃなかった。なんだか整然とした人の動きというものが快感を与えるような気がした。と、同時に多分全体主義的時代にあったら自分はそういうものに陶酔してしまうタイプじゃないだろうかという危惧を覚えた記憶がある。
 現在70代後半の人たちのインタビューや取材を読むと、終戦を迎えた頃、「いわゆる皇国少年だった」という言葉を良く聞く。私は間違いなくそうした少年時代を過ごしただろうと思う。先頭を切って「良い子」を演じるタイプだった。「偉いねぇ」といわれたいのはどんな少年少女でもそうだろうけれど、私は誰よりもそんな時に手を挙げて、突っ走って失敗するという傾向にあった。まぁ、軽佻浮薄という表現はあたらずといえど遠からずだった。ま、50歳を過ぎて面と向かって「君のような軽佻浮薄な部下は持ったことがない」といわれるとは思わなかったけれどね。
 あんなにたくさんいた同期生の中で、わずか2年間に知り合えたのが何人いたのか、もう殆ど覚えていない。