ほぼ足りてまだ欲 その先

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お墓

 うちは前にも書いた通りに死んだ親父が農家の三男坊だから、それまで墓というものがなくて、お彼岸が来ても、よそのうちのようにお彼岸の墓参りがどうとかこうとかという行事なんてものはなかった。
 ある日、その親父が「墓を買った」といったのはバブルの頃のことだからもう20年以上前のことだろうか。それを聴いた時はホッとした。それまで考えまいとしたりして現実逃避をしていたんだけれど、彼が死んだら、墓をどうするのかを考えなくてはならないなぁという問題があった。それがある日突然解決していた。一度車に彼を乗せてその墓なるものを見に行ったことがある。随分不便なところだなぁと思ったけれど、そんなところだからこそ墓として売りに出たんだろう。墓石も建っていて、こりゃ結構なことだった。
 ところが彼が死んでからはじめて知ったのは、その墓がわが家のものだと証明する書類が見つからない。その墓地の管理事務所にそういったら、証明はできるけれど、それの証明書を作り直し、なおかつ名義人の書き換えが必要だというのである。なんだ、その名義人ってのは、と思った。不動産買っているわけでもあるまいに、そんなものは届け出だけかと思ったら書き換え料を払えという。その時にまた知ったのだけれど、この墓地を管理する法人はバブル期にゴルフ場開発に手を出して、バブルがはじけ、やばいことになっているというのである。さもありなんだ。
 こうして考えると今これからの時期に、墓はかなり大変な問題になる。高度成長期に入ってから地方からどんどん青田刈りのようにして企業社会の歯車をかき集めてきた都会にはもう墓地は飽和状態になっている。これから先、どんどん需要と供給のバランスは崩れていく。死者の埋葬についての考え方を根本から見直すべき時期に来ている。住宅と同じように集合化をより促進していく方法を考えなくてはならないし、ひょっとしたら考え方として墓地という概念を払底することも必要かもしれない。さもないと金がなくては墓地に埋葬すらされずに終わる人生がそこここに発生する。
 わが連れ合いではないけれど、死んだら誰にも知らせずに火葬に付し、骨はどこかの山に散骨して欲しいという人には何人も出会う。その「どこかの山」が問題だ。こうなると、富士山の麓の高台に「公営散骨場」でも作るということだって真剣に考える必要だってあると思う。確かにエジプトの王様じゃないんだから大きな墓を作るのももはや羨望の目で見られる時代ではなくて、蔑みの目で見られるようになってくるのかもしれない。