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三國一朗

証言・私の昭和史〈4〉太平洋戦争後期 (文春文庫)

証言・私の昭和史〈4〉太平洋戦争後期 (文春文庫)

 四角い顔をした低い良い声のおじさんだった。もう覚えている人も少なくなったことだろう。
 三國は東大出身者だとは知っていたけれど、アサヒビールの社員だったことは知らなかった。東京12チャンネルで「私の昭和史」の司会をやった。その番組で実体験を多くの人が語り、これが「証言・私の昭和史」として6分冊になって文春で文庫化されている。どうやら最初の出版は學藝書林から1969年刊でその後旺文社から文庫化されて文春に至ったようだ。もちろんもうとっくに絶版になっていて、私は古本屋で少しずつ集めた。ネット上では今でも古本で入手は十分可能だ。それでも第6分冊だけは未入手のままになっている。それは自分の興味範囲から外れているからでもある。
 この第4分冊のまえがきで三國が書いていることを引用したい。

 おそらく読者の多くがそうであろうと思うが、この巻の内容を読んで、一体なぜこんな無謀な戦争を日本人はやったのか、その真意のほどが理解できないーーそんな感想を抱かれるのではないか。
現在からなら、戦争に深入りする一方だった当時の日本人の愚かさを嗤うことはやさしい。しかし、いきおいというものは怖いもので、あぶないと気がついても、既にブレーキの利くタイミングを越えていたという事例は、やはりあるもののようだ。

 そして三國は横浜事件に関連してこのようなことを書いている。

 問題は彼ら(特高)が今、その所業をどう考えているかである。俺のやったことはあの時代においては正しかった、と考えているとすれば恐ろしいことである。
 「あの時代においては正しかった」という開き直りが、まだ本人の胸一つに秘められているあいだはよい。しかし、その「開き直り」は、ほんのちょっとしたことで、胸を張った広言に転化することがないといえるかどうか。これほど恐ろしい「逆戻り」はないと、私は考える。

 今まさに、その曲がり角にいることは間違いない。自虐史観だといって「強い日本」を取り返すと云っている連中がやっていることはまさにこの「胸を張った広言」ではないか。それほどこの国は劣化が進んでいるということの証明のようだ。
 三國一朗のこの番組は私も覚えているけれど、当時の私にはただスタジオでのインタビューを流しているだけでつまらなかったことくらいしか覚えていない。NHKの掘り起こしをさかのぼること半世紀くらいの話で、この当時まさに伝言でない証言者がまだまだ健在だっただけにこの種のものをしっかり残していく必要があるんだろうと思う。
 三國一朗は「なんでもやりましょー」という番組の司会もやっていたことを覚えてる。早慶戦の応援席に入って相手校の応援をして来いという指令で、この人はこんな事をしてきました、という回のことしか覚えていないのだけれど。
 第4分冊には風船爆弾の「ふ号作戦」についても語られていて、二人の証言者が登場している。ひとりは陸軍技術研究所の所員だった人、そしてもう一人は女子挺身隊として風船製造に従事した人で昔の桂小文治の長女。そもそもの発想者は中央気象台調査課長だったとしてある。なんと一万発を製造する計画ですくなくともそれに近い数字を完成させていたという。
 こちらの書き込みだと少なくとも342発が米国本土に着弾している。

証言私の昭和史〈第1〉昭和初期 (1969年)

証言私の昭和史〈第1〉昭和初期 (1969年)