ほぼ足りてまだ欲 その先

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VAN

 NHKシリーズ東京 第2回「街はこうして輝いた〜青山・石津謙介〜」の再放送を今朝やっていた。くろすとしゆきが80歳、石津祥介が79歳だという。あの当時はもっともっと歳上だと思っていた。石津謙介はうちの親父と同じ歳で、しかも岡山出身だってところまで同じだ。どこが違うのかといったら彼は大店の紙問屋の息子で、うちのとっつぁんは郡の水飲み百姓の三男坊だったってことで、これは決定的な違いだ。彼は明治大学のグライダー部で、ライセンスを持っていたから飛行機のパイロットを育てるためのグライダー操縦の指導をやっていたので徴兵されなかったそうだ。それで戦争の時には天津にいて戦争に行っていない。同じ中国でもうちのとっつぁんは北支に三年いっていたという。
 それで戦後石津謙介は英語が喋れたので駐留軍の通訳をやったところから当時の日本人のほとんどと隔絶された人生を送ったというわけだ。
 それにしてもくろすの話によると、オリンピックで真っ赤なブレザーを日本選手団が着てから世の中が変わったのだという。
 東京オリンピックの時、私は高校二年生でそれまで真面目一本槍の高校生だったのに、その時くらいから、VANにすっかりやられてしまって、突然軟派に鞍替えしていった。
 それまではドイツ語もやろうとしていたし、できることなら高校生のうちにアメリカへ留学したいと思っていたくらいで、学校でもハワイ生まれのお婆さん先生のdictationの授業を特別にとっていたくらいだった。もう英語漬けの毎日を送っていた。
 しかし、VANのボタンダウンの真っ白なシャツを着て、月星がつくったいわゆるスニーカーを履いてみゆき族にあこがれていた。毎月のMEN'S CLUBを見てはなんでオレが街のアイヴィー・リーガーズに載らないんだろうと思っていた。
 ラジオ関東が始めた「アイヴィー・クラブ」という番組のメンバーになってキーホルダーを貰っていたくらいだった。ほとんど青山に入ってないが、それでもオリンピックや、キディー・ランドなんかには出入りしていた。
 もうその辺からは大軟派に落ちていって、それまでの友人から「一緒に勉強を頑張ろうよ」なんていわれていたけれど、それを鼻で笑って、エレキバンドと落語、そしてアイヴィーに転がっていったのだった。
 しかし、それが良かった!そうでなかったら、今の人生を送ることは決してなかったわけだものねぇ。そういう意味でVANに感謝だ!