ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 今、私が多用しているのはKEENという米国、ポートランドの会社が作っているハイキングブーツ。今はどこへ行くのもこれをはいている。さすがに車を運転するときはちょっと大仰なので、同じく米国、ロックポートのMERRELLのスニーカーみたいなものをはいていたり、同じMERRELLのスリッポンを履いていく。今はもうスーツを着ることなんてないので、これで十分だ。
 子どもの頃は前ゴムの運動靴が当たり前で、そのゴムになぜか名前を書いた。紐の運動靴を初めて履いたのは多分中学に上がってからだったのではなかったか。小学生は前ゴムの靴を履くものと決まっていた。だから、紐の運動靴を履くようになった、ということはちょっぴり大人になったことを示していた。これが高校生になったら革靴を履くようになった。紐の革靴が普通だった。あれはいったいどこで買ったんだろう。近所の商店街には靴屋はなかった。横浜駅西口の高島屋で買ったのだろうか。今から考えたら、磨いた記憶がない。
 これが石津謙介のVANが猛威を振るってから大いなる変化をもたらした。スリッポンやチャッカーブーツを履く輩が出始めたのだ。これは画期的だった。それもMEN'S CLUBという主婦の友社が出していたグラビア雑誌が拍車をかける。誰が何といっても日本製靴のREGALが格好良かった。でも、ちょっと高かった。ハルタのスリッポンではダメだった。前に縫い目があるのだ。それはダサイ。
 大学生になると、銀座ワシントンが売っていたゴアブーツを履いていた。なんちゅうことはない、あとで知ったのは英国では作業靴がみんなあんな横がゴムになった靴だった。あれをビートルズが履いていたので、私たちももちろんかぶれてはいていた。わが友人のひとりはそのためにワシントンでアルバイトをしていた。
  社会人になって最後にたどり着いたのは神田小川町にあった平和堂靴店だった。ここの靴は総革だった。つまり、靴裏まで合成ではなくて革だった。とてもしなやかで、足にフィットした。そしてそのフォルムがとにかくトラッドだった。靴の裏は革だから当然減る。そうすると平和堂に持っていって裏を張り替えて貰う。そうやって大事に大事に三足ほどをとっかえひっかえ履いていた。
 平和堂はもう飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いだった。いつでも賑わっていた。ここで靴を買えるようになったことが嬉しかった。
 ところがバブルで世の中が浮かれ放題だった頃、平和堂は店を驚くほどのビルにした。表の壁の石に店の名前が彫り込んであるという格好の良いビルだった。そうか、それほど儲かったのか、そりゃ凄いと思っていた。バブルがはじけて、ビルごと人手に渡ってしまった。今はもうこの平和堂の影も形もないが、ビルだけはスポーツ用具点になってそのまま建っている。店は経営に失敗してしまったからつぶれてもしょうがないのだろうけれど、あそこの靴の愛用者だった爺達は今いったいどんな靴を履いているんだろうか。