ほぼ足りてまだ欲 その先

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帰還者

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ストーリー:中国残留孤児2世の半生 教え子は「ドラゴン」(毎日新聞 2015年11月22日 東京朝刊)
 岐阜刑務所で13年の刑期を終え、汪楠(ワンナン)さん(43)は東京都新宿区にある石井小夜子弁護士の事務所に向かった。2014年6月18日。テーブルいっぱいに料理を並べ、迎え入れてくれた約20人の支援者に、「ただいま」と照れくさそうに言った。
 「先生と話したいことはないの?」。久しぶりの酒でほろ酔い加減になった頃、促された。さっきから気になってはいたのだ。だが、申し訳なさと情けなさで言葉がなかった。中学時代の恩師、岩田忠さん(62)の隣に座った。約20年ぶりの対面になる。「先生の言った通りには生きられませんでした」。やっとの思いで汪さんが言うと、「私の力が及ばなかったんだよ」。岩田さんは顔をくしゃくしゃにして泣いた。
 汪さんは中国残留孤児二世らが1980年代に結成した暴走族グループ「ドラゴン」(後の怒羅権)の初代メンバー。中学卒業後は暴力団に出入りし、2000年に事務所荒らしグループの首謀者として窃盗容疑で逮捕された。一方、岩田さんは大学卒業後の1976年から、東京都江戸川区立中学の日本語学級を担当し、汪さんら毎年数十人の二世、三世を教えた。17年間の教え子は400人を超える。
 中国から来て間もない生徒は日本語が分からなかった。しかし、専用のテキストはなく、岩田さんは全てを自前で作った。都庁などに陳情を重ね、二世らが高校に進学できるよう特例措置を設けさせ、入試の採点基準に学習意欲が加わったこともある。ハンディを乗り越え、日本で堅実に暮らす教え子は少なくない。
 だが、一部はいじめや差別に暴力で対抗し、犯罪に手を染めた。1998年に5382人だった外国人の刑法犯検挙人数は、2004年に8898人に増加するなど社会問題化。怒羅権はその象徴としてクローズアップされた。「私のやり方が間違っていたせいではないか」。汪さんの社会復帰を喜びつつも、岩田さんの心は揺れる。
 中学教師だった岩田忠さん(62)には忘れられない光景がある。1980年代初め。中国残留孤児の帰国事業が本格化し、担当していた東京都江戸川区にある区立中学の日本語学級に孤児の子供が目立つようになっていた。ある日、日本人と一緒に音楽の授業を受けるはずの女子生徒が「教室に来ていない」と言われた。生徒はトイレで見つかった。用務員に促されて中に入り、言葉を失った。個室の壁四面にボールペンで書いた中国語が並んでいた。生徒の好きな詩や中国に残った家族への思い。「中国に帰りたい」と生徒は泣き続けた。
 新卒の岩田さんが日本語学級を任されたのは1976年4月。大学で中国語を専攻したのが理由だった。赴任当日、校長に新聞記事を示された。シンナーを吸ってバイクに乗り、事故死した少年は、その春に他校へ転校した日本語学級の生徒だった。孤立しがちな生徒にとって日本語学級は最後の居場所とも言われた。オイルショックで企業の採用が減り、半ば仕方なく教員になった岩田さんは「大変な所に来てしまった」と感じた。
 日本語を勉強する教科書もカリキュラムもなく、すべてが手探りだった。岩田さんは日本語が苦手な生徒でも分かるテキストを作り、補習を重ねた。当時の生徒は朝鮮半島からの引き揚げ者の子供が数人で、大半は高校を受験できるレベルに学力が向上した。しかし、1980年代に入ると空気が変わる。
 中国残留孤児二世らが加わり、日本語学級の生徒は50人を超えた。二世らは日本語をほとんど話せない。授業を受けようとしない反抗的な態度にも戸惑った。「『頑張れ、頑張れ』とやっても反応がなかったり、逆に火が付いたように私につっかかってきたりしました」。そんな時、女子生徒の一件が起きた。
 「勉強さえできれば大丈夫と思っていたが、それだけでは駄目。彼らの原点である中国の文化を大切にしなければいけない」。岩田さんは思い直した。二世らと信頼関係を築こうと試行錯誤していた頃、14歳の小柄な少年が入学する。後に暴走族「ドラゴン」の初代メンバーとなる汪楠(ワンナン)さん(43)だった。
 汪さんは1972年、吉林省中部の長春市で生まれた。実家は知識層の家系で、父は大きな病院の副院長を務め、親族に裁判官や大学教授がいた。汪さん自身も小学校を飛び級してキリスト教系の中学に進んだ優等生だった。ところが、親の離婚で人生は変わった。父は1982年に残留孤児の日本人女性と再婚し、日本への移住を望んだ。文化大革命で拘禁された過去があり、政治に左右される中国の生活に見切りをつけようとしていた。
 汪さんは長春を離れたくなかった。1986年4月。「船遊びをしよう」と父に誘われて上海に行くと、次に「もっと大きな船に乗ろう」と言われた。行き先も知らずに船に乗り、朝目を覚ますと赤いタワーが見えた。神戸港だった。不意打ちのように日本での生活が始まった。
 日本に来た父は、中国の医師免許が通用せず、整体師の資格を取るため昼は専門学校に通い、夜は皿洗いのアルバイトをした。学校近くの二間のアパートに一家7人が住み、汪さんはよく知らない父の再婚相手の子供に囲まれて「居場所がなかった」という。富裕層だった中国での生活とは比べるべくもなく、訳も分からぬまま通い始めた中学でも「1番から一気にビリ」の落差を味わった。
 日本語学級には同じ境遇の仲間がいた。貧乏で日本語が話せない二世らは日本人の生徒に嘲笑された。体操着や上履きを買えず、お下がりをもらい、先輩の名前をフェルトペンで消した上に自分の名前を書いた。そんなことがいじめの対象となった。汪さんは制服を買う金がなく、学校が不良生徒から没収したものを借りた。内側に竜の刺しゅうがあり、襟が異様に高かった。小柄な汪さんには大きすぎたが、それしかなかった。登下校のたびに「お前、生意気だ」と囲まれたが、初めはなぜからまれるのか分からなかった。「中国に帰れ」と怒鳴られ、二世らは集団で登下校した。
 つたない日本語に耳を傾け、話を聞いてくれた大人は岩田さんだけだった。「日本語ができるようになれば友達もできる」と励まされ、「中国語を捨てる必要はない」とも言われた。「他の先生は『日本のやり方に合わせろ』という態度でしたが、岩田先生は『嫌なことは嫌と主張しろ』と。その言葉が救いだった」。岩田さんの「無理をして日本人と同化しなくていい」という教えを、彼らは「イワタイズム」と呼んだ。
 ところが、日本語が多少できるようになっても、いじめは続いた。「中国人は遅れている」。汪さんは日本人の持つ差別意識に気づいた。区内にあった孤児の一時入所施設「常盤寮」が、汪さんらのたまり場だった。当時、全国で最も多くの孤児が集まり、情報交換の拠点となっていた。毎夜、1階ホールにあるピンクの公衆電話が鳴った。顔も知らない全国の2世らが貧しさや、日本人にバカにされた悔しさを訴えた。
 「つらいのは俺たちだけじゃない」。1986年9月、日本語学級の12人で「龍的伝人」というグループを作った。3年2人、2年7人、汪さんら1年3人。グループ名は竜の末裔(まつえい)を意味し、二世がいじめられているという情報があれば、仕返しに行くと誓った。1年後、このグループは「ドラゴン」と名を変える。
 日本人の不良グループにけんかをふっかける汪さんらは、二世から英雄視された。「負けても二世から米やパンをもらい、また別のけんかに向かった」。1987年末ごろ、メンバーは数十人に増えていた。汪さんは家出して学校に行かなくなり、仲間の家を転々とした。
 「日本語学級の生徒がけんかに明け暮れている」。職員会議で、二世らの素行がたびたび議題に上った。岩田さんは頭を下げるしかなかった。この頃、汪さんは、岩田さんから怒鳴られたことを覚えている。「怒りがあるなら俺を殴れ!」。汪さんが頭をはたくと、取っ組み合いになった。「何でそんなことを続けるんだよ」。岩田さんは汪さんを押さえつけて叫んだ。
 長征−−。近隣区まで出向いて「仕返し」をすることを、汪さんらはそう呼んだ。ところが、皮肉なことに、殴り合いをして知り合った日本人がドラゴンに加わり始めた。「日本人と仲間になり、毎日がいっそう楽しくなった」。疎外感を生まないように日本人がいる時は日本語でしゃべる。汪さんらは新たなルールを作った。ドラゴンにはもともと明確な組織性も上下関係もない。仲間が仲間を誘い入れて膨張していった。「二世をいじめた日本人に仕返しする」という大義はなくなり、他の暴走族と同じようにシンナーを吸い、改造バイクに乗り始めた。
 たまり場は「子供の広場」(通称・恐竜公園)だった。100~200人が集まり、近隣住民から中学に苦情が来た。そのたび、岩田さんが公園に向かった。「家に帰りなさい」。バイクの爆音にかき消され、むなしい説得だった。シンナーらしきものを吸う少年もいる。ふと、汪さんの姿を見つけた。「汪、何をしているんだ」。汪さんは冗談めかして言った。「先生、俺も立派な不良になっただろ?」。険のある目。もう、いじめにおびえていた頃の面影はなかった。「汪は、彼らは、変わってしまった」
◇服役して知った“優しさ”
 汪さんは17歳で指定暴力団の組員となり、少年院や刑務所を出入りする。「怒羅権」と名を変えたグループとの関係も続いた。ピッキングに手を染めたのは27歳の時。日本人と中国人の犯罪グループを組織し、事務所荒らしを繰り返した。通帳を盗んで現金を下ろした後、発覚を遅らせるため通帳を同じ位置に戻すなど手口は巧妙だった。
 当時はITバブル全盛期。高級ホテルを泊まり歩き、「会社経営者」の肩書でレストランに出向いて数十万円のワインをつぎ合った。「客は大抵、IT関係かボンボンか犯罪者。友人の子供の誕生日に遊園地を借り切って遊んだこともある。カネは入るし、万能感がすごかった」。2000年8月、大分県の銀行から3800万円を引き出し、向かった空港で緊急配備中の警察官に窃盗容疑などで逮捕された。半年弱に盗んだ金は総額1億6000万円に上った。
 公判を担当した石井小夜子弁護士は汪さんを十代の頃から知っている。心を開かない汪さんは決して反省の態度を示さなかったという。「ずっと私を探っている感じ。それが魯迅で変わった。初めて本当の意味で彼と話ができました」と振り返る。拘置所へ接見に訪れた石井さんが何気なく中国の作家、魯迅を話題にした時のことだ。汪さんの表情が変わった。偶然にも代表作「阿Q正伝」は汪さんが中国にいた頃からの愛読書だった。家も金もなく無知なくせにプライドだけは高い主人公の阿Q。殴られても都合の良い解釈で「精神勝者」となり、自分を慰める惨めな姿に、汪さんはひそかに自分を重ねていた。阿Qという架空の人物に仮託して、せきを切ったように自身の境遇や思いを明かし始めた。
 裁判官に提出した上申書で汪さんは書く。「なぜ乞食(こじき)だからといっていじめに遭わなきゃならないのかに対しての阿Qの怒り(中略)阿Qをいじめる側、私を差別する側に対して、私も阿Qも不平不満を言うだけの知識がない」
 東京地裁は2002年10月、懲役13年(求刑・懲役15年)を言い渡した。その1カ月後、汪さんは石井さんに手紙を出した。「イワタイズムが第一エンジンなら(石井)先生は第二エンジンのような役割を果たしました。ただ『感謝します』では私の気持ちは伝えられません」
 刑務所に入ると、面会や手紙のやり取りは原則的に親族に限られた。当時の汪さんは父親との交流が途絶えており、フリー編集者の定塚才恵子さんが汪さんと養子縁組し、定塚さんを通じて手紙のやり取りを始めた。石井さんは毎月発行する会報に汪さんの手紙を掲載した。生い立ちから事件を起こすまでの心境をつづった手紙は反響を呼び、「支援したい」という声が広がった。
 その後、監獄法が改正され、親族でなくても受刑者と手紙のやり取りができるようになると、支援者たちは一斉に手紙を出した。汪さんは必ず返事を書いた。誕生日にバースデーカードを出し合い、年賀状を通じてお互いの近況を尋ねる。旅行先のベトナムからエアメールが届けば、汪さんは絵を描いて返事を出した。やり取りした手紙は数百通に及んだ。
 中学卒業後、汪さんの周囲にいたのは犯罪者、警察官、検事、刑務官らがほとんどだった。心を通わせ合うつながりなどない。手紙とはいえ、普通に暮らす人々と接して交わす何でもないコミュニケーションが、汪さんには新鮮だった。

 石井さんは言う。「岩田先生をはじめ、これまでも支援者はいましたが、膨大な手紙のやり取りを通じて、汪君が『自分は大事にされている』と確信できるようになったのは大きい。生きる張り合いができたのだと思います」
 汪さんからの2013年10月16日付の手紙にこう書かれている。「皮肉にも刑務所の中で私は人生においてもっとも充実、そしておそらくは正しい人間関係に恵まれていることに気づかされました(中略)皆さまの期待に応えるのはもちろんのこと、皆さまとの交流を通じて身につけた、また気づいた信念・価値観を実現していくことを決心しました」
 公判では「謝るだけなら誰でもできる」と謝罪や反省を拒否したが、同じ手紙で事件にも触れた。「盗みを働いても私はその後ろに被害を被る人がいるということを意識することも理解することも出来なかった(中略)私は私の痛みを知ってもらい、理解を得ることで他人の痛みを知るようになった」
 岐阜刑務所を出た汪さんは現在、残留孤児を支援する会合に石井さんと参加し、ボランティアで通訳を務めている。
 岩田さんは17年間、日本語学級の担当を務めた後、夜間中学などの教壇に立ち、一昨年退職した。生徒に話したことはないが、父は旧満州(現中国東北部)に駐屯した関東軍の歩兵だった。ソ連軍の侵攻に伴い、関東軍は、汪さんの故郷でもある現在の長春市から朝鮮国境に司令部を後退させた。置き去りにされた開拓団が後に数千人ともいわれる中国残留日本人孤児となった。「父も孤児を生むに至った組織の末端にいた一人。それを忘れることはできなかった」と話す。
 怒羅権は2013年に「チャイニーズドラゴン」の名で警察庁に準暴力団認定を受けた。勢力は衰えていない。「生徒の境遇を思い、私は生徒のかけがえのない自己を無理にリセットさせてまで、『日本人のようになれ』とは決して言わなかった。彼らを支えようとする時、中国で育ったことを前提にしなければ救いきれないと思った。それが暴力につながるとは予想できなかった」。しかし、他にどのようなすべがあったというのか。
 岩田さんは悔やむが、社会に戻った汪さんが優しいまなざしを取り戻していたことは救いだ。出会いからもうすぐ30年。連絡が途絶えた時期はあっても、信頼関係は崩れなかったと思う。いつか苦い思い出を語り合える日が来ることを、岩田さんは待っている。
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 ◇川上晃弘(かわかみ・あきひろ)(東京社会部) 1998年入社。宇都宮支局、東京社会部、神戸支局などを経て現職。2005年からの3年間は警視庁捜査1課担当として、秋葉原連続殺傷事件や暴走族グループ「怒羅権」などを取材した。14年から「千の証言」など平和取材に携わる。