現役で仕事をしていたときの話を持ち出すと、それは結構メイキングしてある場合が少なくなくて、にわかには信じがたいことが多い。巧くいった話の大半には少なからずそういう要素が含まれている。幸い私には巧くいったことがほとんどないので、そういう状況に陥らなくて良いのは良いけれど、話としてはつまらない。
仲間に人を勧誘するときは、いつでも辞めようと思ったら辞められる、というのが必要条件だといわれたことがある。一歩足を踏み込んだから、がんじがらめになってしまうのがわかっていたら、なかなか人は入ってきてくれないと。それが大したことがないという風を装ったら、それは一種の詐欺ってことになる。そういうところに足を踏み込んでしまったことは何度かある。「よし、俺がやってあげよう、やらなくてどうする!」と途端にアドレナリンがほとばしって、あとになって大変に後悔した記憶はいくつかある。
25年ほど昔といえば、バブルの残滓期だった。Macintosh LC475を職場に導入することができた。おじさんたちはこれをどう動かすのかわからないから、なんでこんな高いものを必要とするのかと、これまでの手造りでなにがいかんのかと、将来を見据えられずにいた。「お前らのおもちゃには高すぎる」といわれた。すぐに使えなくて放り出す、とまでいわれた。「その後」の展開を読めない。誰がそれを説明して説得するのか、なんてことになる。丁度挟まる年代だったということもある。これがわからないのは無理もないけれど、先を読まなきゃ、なんて生意気なことをいったので、上からは「生意気な奴だ」と思われていた。あの頃もひとり相撲を取っていたんだろうなぁ。あの人たちのほとんどはもうこの世にいない。最後まで「くそ生意気なガキ」だと思っていたんだろうと思うと、ちょっと切ないよね。
こういう連絡事項はネット上でやることにしようといったときも、一体誰がやるんだ、俺がやりますよ、というと、必ず返ってくる反撃は「お前がいなくなった後、誰がそれをやるんだ、お前はいつまでもここにはいないだろう」という奴だった。本当は「それを考えるのはあんたじゃないから心配するな」と言い返せば良かったんだけれど、それを言っちゃおしまいだ。それで取り下げた計画はいくつもある。
とまぁ、昔を振り返ると、こういう話になっちゃうってのは、ちょっと寂しいことではある。