私の親の世代は、戦中戦後、素人畑を庭の片隅で耕し、薩摩芋や南瓜を作って腹の足しにしたというような話を良く聞きました。もっともうちの親の場合は造船所に勤務していたので、職業を「船大工」と書いて出したら、米の配給が他のうちより多かった、なんて話をしていたから、結構のんびり暮らしておったのかも知れない。
そうした世代の人たちの中には、もう薩摩芋や南瓜は食べたくない、見たくもないという人もいた。すいとんばっかりでいやだったとも聞く。しかし、今私たちが食卓で食べる薩摩芋や南瓜は煮ても旨い。すいとんだって、ホウトウだって旨い。そりゃ戦後この方次々に品種改良が施されてきたし、調味料がどんどん発達してきているんだからまずく作る方が難しい。その上、かつては素人が肥料も十分でないところで栽培のまねごとをしたんだから、旨いのが取れるわけがない。それが旨くなかった要因だよ、と赤瀬川源平のエッセーを読んでいて、今更ながらに思い出した。
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