生意気なことをいうようだけれど、日本の音楽シーンというものは、かなり近年まで要するに西洋の物まねでしかなかったのね。
何でもかんでも。
ポップミュージックにしたって、クラッシックスにしても。
その物まねも最近になると、かなり進歩して、バックの音作りとか、録音技術とか、楽器の操作とか、聴いていると、一体全体この音はどこの誰が作っているのか、皆目見当がつかないんだけれど、そこに乗った歌声が日本語だったから、あぁ、これは日本の人たちが作った音なんだ、とわかるくらいで、そうでなかったら、あんまり見当がつかないわけ。
それくらい物まねは完璧になったわけだね。
こうなると、これはもう物まねではなくて、ある程度の感覚が世界的に普遍化されてきたというべきなのかも知れないのだよね。
日本語で歌おうが、英語で歌おうが、もうメロディーだけじゃなくて、音作りそのものがもはや色がなくなりつつあるわけだよね。
時代の伝播力は力そのものも強いけれど、波及力ももはや半端ないんだね。
これがさぁ、ジャズの世界でももう本当にそうなんだよね。恐れ入るわけよ。
50年ほど昔の物まね力は、本当に大したことはなくてね、ちょっとロンドンか、ニューヨークへ行って、切り取ってくれば、暮らせたのね。
伝播力が弱くて、あとからやってくるから、あ、あいつ先端だったんだなぁって。そんな程度だった。
今その時代の音作りをやると懐かしくてねぇ。
すぐに飽きるけど。
時々、江戸時代から続いてきている日本の音楽を聴いてみると、キィーの高さに驚くよね。長唄にしても、常磐津にしても、よくもまぁ男性で、しかも、西洋風の発声でもないのに、あんな高い音で唄えるよねぇと、恐れ入ってしまう。
あの発声は多分西洋人には出来ないぞ。