ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

浮島丸事件


 この船のことは全く知らなかった。
浮島丸1937年竣工の大阪商船の貨客船だった。
建造は当時の三井物産造船部玉工場。今の株式会社三井E&S玉島工場。
姉妹船は「波上丸」

排水量 8,085トン
登録長 108.43m
垂線間長 107.00m
型幅 15.70m
登録深さ 9.75m
当時としては珍しく、三井製B&W式2衝程複働無気噴油式クロスヘッド型ディーゼル機関を搭載。すでに三井はこの時、B&Wのライセンシーである。
大阪・沖縄航路に就航
旅客定員 一等:12名 二等:55名 特別三等:101名 三等:677名
乗組員 89人

1941年9月に徴用され、特設巡洋艦となる。
1943年4月に特設砲艦とされる。
1945年2月に特設運送艦となる。
終戦時には青函連絡船の代用として運行されていた。

そして1945年8月24日。浮島丸は青森県大湊港より戦時中に朝鮮半島から徴用され、使役に就労させられていた朝鮮人の人たち3,725名を送還するために釜山へ向かう。人数については登場者名簿が発見されていないため、はっきりしない。7-8,000名ほども乗っていたのではないかという説すらある。国の書類には記載があるのかもしれないけれど、国はそれを公表してこなかった。これもまた不可思議な対応である。そもそも不可思議といえば、なぜこの船が釜山へ向かわずに舞鶴港へ入っていったのかということが最大の疑問である。GHQからの司令が各船舶に100トン以上の船舶は入港せよと通達されたことは確かなようだった。
 時はポツダム宣言受諾が発表されて、敗戦が決定的となり、世の中は非常に不穏な状況となり、軍の指揮命令系統はあってなきが如しであったらしい。船の中でも高級将校は部下の反抗を恐れて部屋に閉じこもっていたものがいたくらいだという。鉄拳制裁を日常的なものとしてきたが故にその反撃もあったということだろう。
 船は水先案内のボートに従って入港するが、機雷に対する掃海艇の伴走はなかったそうだ。1945年8月24日17時20分頃爆発して沈没する。米軍は音響機雷による爆発で沈没したと公式に記録しているそうだ。しかし、自爆説もないわけではなくて、出港時にバク装を施したという証言を間接的にする人もいた。
死亡者 549人(乗船者524人、乗組員25人)といわれている。



www.youtube.com