このダムの建設計画を私が知ったのは多分10年ほど前のことだった。それまで30年ほど昔から毎年渋川から吾妻川の南北いずれかの道を辿りながら川原湯温泉の横を直角に端を渡り、長野原駅前を通って六合村に遊びに行っていた。それも年に3度も4度も行っていた。
それが10年ほど前に久しぶりに行ってみたらなんだか八ッ場ダムに関する看板がやたらと増えていたことから知ることになった。まことに驚いたのは、あれだけ人家がたくさんあり、温泉地もあり、農地もあってどんどん車が行き交い、高速道路からのアクセスだったそんなに遠くないし、酸性の水がどんどん流れ込んで、川の途中で中和して下流に流しているような状況でダムを造ってどうするんだろうかと、あまりにも非現実的なダム建設計画にいやいや、そんなバカなことを真面目に実行しているんじゃないんだろうなぁと思っていた。そこがぼぉ〜っとしている一般市民の典型なんである。実は中和工場はあれを造ることによって水の質が改善できたことになり、建設への一つのステップになっていたのだそうだ。
ところが2-3年前に行ってみて、あまりにも景色がどかぁ〜んと変わっているのにものすごくびっくりしたし、ものすごく不気味だった。
しかし、その頃このダム建設計画が1952年に打ち出されたものだと知った。私がこのダム計画とそれに対する賛否両方の運動について全く知らなかったのは、1980年代になって反対運動はもう全く下火になってしまっていたからなんだそうだ。地元での騒ぎは収まってしまっていたというわけだ。
しかし、なんで半世紀もの間その計画は見直されることもなく、また建設を実行されることもなかったのだろうか。電源開発のために同じく1952年に建設計画が決定された佐久間ダムは戦後の電力需要に対応するために急いで建設されて1956年には完成してしまった。まぁ、この計画については戦前から語られていたので、同一に語ることはできないのかも知れないけれど、計画を立案してからこれだけの長い期間、実行に移すことができなかった、あるいは意図的にしなかった理由はなんだろうか。1947年のキャサリーン台風による利根川下流域の洪水がその原因だったとすると下流各県に負担を求めてきたこと(もしこれが覆るんだったらそれを返せと不良小説家が主張しているという)もなんだか変だ。
下流域の水需要は大きく減少しているという。そうだとするのであればこの計画は見直す必要があったにもかかわらず、国土交通省がそのまま看過していたことに伴う職務怠慢だということにならないだろうか。ということは何もチェックせずに負担金を支出していた流域自治体にも何ら問題がないとはいえないだろう。つまり、不良小説家の発言は実は地方自治体の長としては何もチェックせずに支出していたことを明らかにしたことになる。