安倍晋三も昨日「今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものです。」といった。つまり、300万とも310万人ともいわれている、あの戦争で死んだ日本人のおかげでいま私たちは平和に暮らしているんだという解釈だ。
あの戦争で死んだのは日本人だけではない。中国、朝鮮半島はもとより、シンガポール、フィリピン、豪州、英国、インドネシア、米国、インド、タイ、台湾、ビルマ、等々、様々な国の犠牲者を出している。それも悲惨な形で。しかし、彼の演説はあたかも、日本人の犠牲者のことしか意味していない。
しかも、彼らが死んでしまったから、私たちは平和で反映した社会に暮らしていることができているかのようだ。彼らが死んでしまったあと、地球上にはなにが残ったんだろうか。「尊い犠牲」というけれど、尊い命だったのであれば、なんであんなにまるでうち捨てるように放り出して平気だったのだろうか。あの当時の政府、軍隊、そしてそれをやんややんやと喝采を揚げていた国民諸兄は、見殺しにしてきたんじゃないのか。「そりゃしょうがない、だって戦争だもの」といってきたんじゃないのか。「天皇陛下の赤子なんだから、天皇陛下のために死ぬのは名誉なんだ」と吹き込んだ挙げ句の果てに、食糧もなにもないまま放り出していたんじゃないのか。尊い命、だからこそそれが失われたら「尊い犠牲」といえるのではないのか。
そんな社会に戻っていく道を辿ろうとする政治をなぜ私たちは支持しなくてはならないのだろうか。どんな思想を持ってもそれはその人の自由だろう。だけれども、これだけは見間違っちゃいけないんだと思う。人の命を尊ぶ社会にしなくちゃいけないんだよ。あれだけの人を無駄に殺してしまったんだから、それぐらいは学習した方が良いんじゃないのか。