ほぼ足りてまだ欲 その先

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二・二六

 昨日は二・二六だったねぇ。ウクライナ事件で、ほぼ忘れかけていた。

 夜中になって、NHKのテレビをつけたら二年前だったかの「二・二六事件」もの再放送をやっていた。途中から見始めたら、あ、これは初回放送の時に見たかもしれないと思ったんだけれど、ほとんど忘れている。海軍が二・二六事件」の詳細記録をつけていて、これが数十年後になって見つかったというところから始まっていたようだ。
 とかく「二・二六事件」は血気盛んな青年将校達が君側の奸を打つといって起こしたクーデター的に伝えられてきた。じゃ、なぜ青年将校達はそんな気になったのか、ということにはあまり焦点は当たらない。しかし民衆はこの事件のあと、処分される青年将校達の嘆願署名をこぞってしたんだという話は伝わっていた。それほど時の民衆が彼等を支持した理由は一体何だろう、民衆からして血気盛んな雰囲気に呑まれていたのだろうかという疑問もあった。
1936年という年を考えると、それはわかったのかも知れない。私の父親はこの年に大学を卒業している。彼が就職したのは、彼の専門分野の中でも大きな企業ではなかった。新興の企業で事業規模もそれほど大きくはなかった。当時は「大学は出たけれど」といわれた時代である。つまり進学率が今とは比べようもなく低い大学を出たら「末は博士か大臣か」といわれた時代なんかじゃなくて、行く末が良くわからないというほどの不景気である。
 世界大恐慌がニューヨークのウォール街から始まったのが1929年である。日本は大規模は飢餓と不景気に喘いでいた。東北の貧村では娘を売るのが異常ではなくなっていた。「貧富の差が激しくて激しくて」と番組中に出てきた青年将校のひとりの妹が語る。
 そんな世の中となっているのは何が原因なのか、それは天皇が悪いのではなく、そうそそのかしている天皇の周りが悪いんだ、だから彼等を撃って、真に天皇を掲げて改革をする、それが青年将校達のクーデターの動機だったのではないか。彼等は占拠した拠点前で、民衆に演説を打ち、民衆はそれに拍手を送っていたという。
 天皇は時に34歳。断固として青年将校を切り捨てた。天皇にとっての頼りとする周辺が青年将校達にとっては君側の奸だった。34歳の天皇にとっては、苦しい立場だったことだろう。この事件をきっかっけに、陸軍統制派の力が一気に拡大、反対の声をどんどん暴力的に怒鳴り散らしてかき消すことによって戦争へと突っ走り、その9年後には太平洋戦争に負けた。

 渋谷にかつてあった陸軍刑務所跡地の一角に処刑された青年将校達の慰霊碑があるという。なぜ慰霊されねばならないのか、なぜ慰霊されるべきなのか。そこに日本のかつて歩いた道が記されている。