ほぼ足りてまだ欲 その先

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映画「The Railway Man」試写会+

 角川シネマ有楽町という映画館はかつての有楽町そごう、若い人にはビックカメラといわないと通じないか、の8階にある。その下が昔からの読売会館。6階以下がビックカメラになっているわけだ。
 追手門学院大学のオーストラリア研究所からのメール連絡でこの映画の案内が来た。慌てて駐日豪州大使館にメールで希望を入れたら、殆ど折り返しのようにして返事が返ってきて入ることができた。横の席にいた若い女性二人組は全くこの作品を知らずにやってきたようだった。やはりPOW研究会の人を見かけた。
 主演は「The King's Speech」でアカデミーをとったColin Firth、そして女優はニコール・キッドマンである。主人公の Eric Lomaxという人物は実在の人物でそれに相対する真田広之演じる旧大日本帝国陸軍憲兵隊通訳の永瀬隆もまた実在の人物である。彼らは悪名高き「泰緬鉄道」の捕虜強制労働現場で遭遇する。Lomaxの妻を演じるのがニコール・キッドマンである。原作はEric Lomaxの著作であり、このLomaxと永瀬の二人はこの映画にある通り戦後30年経ってタイで再会することになる。
 PTSDについては第一次世界大戦後にこうした症状に注目した研究者が撮影したフィルムが残されているくらいだからかなり昔から注目されていたことは確かだが、個々の帰還兵のケースは多くの場合ひとつひとつを取り上げて語られることは殆どない。「戦争中のことはしかたがない」という風潮に流される。「あなたひとりのことではない」として葬り去られる。「誰も彼もがそうだったのだ」として省みられることは殆どない。家族ですら気づかずに終わることもあり得る。
 戦後あちこちに見られた「戦友会」の多くはそうしたことをはき出すことのできる数少ない場であったのではないかということは容易に想像が付く。多くの経験者がその寿命を終えてこの世界から撤退していくことによって、こうしたことに対する気遣いと、逆の気づきを見えなくしていこうとしている。
 Eric Lomaxも永瀬隆もすでに他界している。私は永瀬隆の名前は「カウラ事件」を追いかける中で知った。
 映画はオーストラリアと英国の共同制作であるけれど、映画の中にはオーストラリアは登場しない。
 映画のあとにニコール・キッドマンが演じたEric Lomaxの妻、Patricia Lomax本人がプロデューサー、監督のJonathan Teplitzky、鳥越俊太郎と共に登壇。生前のLomaxと永瀬隆とのやりとりを語った。
 驚いたのはこのあと登場した駒井修だった。彼の父親はやはりこの泰緬鉄道の現場で永瀬隆が通訳を務めた憲兵隊の軍人で、BC級戦犯として処刑された。戦後は「戦犯の子」として蔑まれ、遺族年金の対象にもならず、就職活動でも差別されるという生活を過ごしながら、当時の捕虜だった英国連邦軍の兵士に謝罪し和解する活動を続け、若者たちに語り継ぐ活動を続けているという。彼もやはり永瀬隆を通じてEric Lomaxを知り、彼は生前のEric Lomaxに逢いにいったという。
 こうした人たちがいるということに大いに力づけられる思いだけれど、この世代がいなくなったとき、私たちにあの戦争を想い出させてくれるのは一体誰なのだろうか。「憎しみはどこかで終わらせなくてはならない」のだけれど、この言葉は被害者が言えば意味を持つが、加害者が言えばそれは傲慢な姿勢でしかない。
 Patricia Lomaxがいった「過去の歴史を正しく知り、双方が尊敬の念を持ってそれを語らなかったら、なにも産み出さない」という言葉はとても重い。
 この映画はあの戦争のすべてを物語ってはいないし、もっと多くの悲惨な出来事があっちでもこっちでも起きていたことを肝に銘じておきたい。

クワイ河に虹をかけた男―元陸軍通訳永瀬隆の戦後 (教科書に書かれなかった戦争)

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泰緬鉄道 癒される時を求めて

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