ほぼ足りてまだ欲 その先

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69年

 広島に原爆が落ちてから今日で69年になる。あっという間に何万人という人間が亡くなり、その後も次から次に命を失っていった。あの年の年末までには14万人が死んだといわれている。いくら戦争中だったからといって、こんな大量殺戮兵器を使ったという倫理観にはただただ呆れるばかりだ。米国ではあの広島と長崎の原爆投下がなかったらまだまだ戦争は続いたはずで、その点では原爆の意味は大きいんだという評価に落ち着いているらしい。つい先日、エノーラ・ゲイの最後の乗組員が死んだが、彼は最後までそれを貫き通したそうだ。
 3月10日の東京大空襲にしても、一晩で10万人以上が死んだといわれている。私たち日本人はあの絨毯爆撃にしても、その延長線上としての広島・長崎への原爆投下にしても、戦争を仕掛けたのは私たちだったから、そのしっぺ返しがこんなことになってしまったのも仕方がないと思っていた。
 しかし、絨毯爆撃を考案し、積極的に進めていたカーチス・エマーソン・ルメイ空軍大将に対して何故日本という国が勲一等旭日大綬章という勲章を授与したのだろうか。勲章というのはその人が果たした功績に対して、あなたは偉いっ!といって表彰するというものではないのか。(尤も近頃その中身はたいそう疑わしいものであることが散見されるけれど)。叙勲理由は「自衛隊の発展に貢献した」ということになっているらしいけれど、そんなのはどんな理由もつけることができる。
 敗戦国たる日本やドイツは戦後、国際軍事法廷で裁かれ、個々人が有罪として処刑された。それはそれであの戦争の決着をつけるという意味では評価はされるべきだとは思う。あれがなかったら日本人のこったから、今時分には東条英機はこんな良いことをいっていた、なんて再評価がなされないとも限らない。日本人は「反省」という言葉を理解できていないんだからしょうがない。
 しかし、カーティス・ルメイに叙勲しなくても良いではないか。日本の家屋を砂漠の真ん中に建てさせて、どんな武器が日本の街を焼き尽くすためには有効かという実験を行わせ、それまでピン・ポイント爆撃といっていた作戦を大きく変更させた張本人だった。
 日本が重慶や中国各地、もちろん真珠湾ダーウィンで行ってきた無差別爆撃についても言及しなくては公平ではないが、殲滅せんとして殲滅したという点についていえば、これは人間的とはもはや言いがたい。
 日本、米国だけではなくて、すべての国が自分たちが何をしてきたか、何をする危険性があるのかという点を「反省」できないのであれば、もはや人間として終わっているというべきか。