ヒラリー・クリントンがプライベート・メール・アドレスを公務に使ったことがいつまでも後を引いている。かなりな分量の公務をプライベートに使っていたそうだ。しかし、日本でだったらそれはどうなるんだろうか。私が現役で会社員をしていた18年前頃にはそういう機器が発達していなかったから、今の現役の人みたいにいくつものスマフォを持たされてはいないから、その辺のことはよくわからないのだけれど、そんなに使い分けるというのは面倒なものなんだろうか。
日本と米国の大きな違いというものが基本的に説明されていないという気がする。それは公文書としての認識が日本では決定的に不足しているということなのだ。なにしろわが先進国たる日本の公文書館は今や容量が足りなくなるのは目に見えていて、憲政資料館の敷地を使おうか、なんてやってんだから、如何に真剣じゃないかわかりやすい。どうする?えぇ〜、あそこで良いんじゃなのぉ・・みたいな。一方、米国では役人のメモひとつだって公文書なんだという認識だというのだから驚き桃の木なのさ。
なんせ大日本帝国に至っては戦争に負けちゃうんだぜというときに全国に向かって「何でもかんでも焼いちまえ!」令を出したくらいで、それで東京裁判で自分で自分の首を絞めたくらいだ。
大体、歴史に対してフェアでなさ過ぎる。それがなんでできちゃうかといったら、自分勝手に解釈することを何とも思っちゃいないからで、あまりにも歴史に対して傲慢すぎる。そういえば安倍晋三は以前は何かといったら「歴史がそれを証明する」といっていたんだけれど、それは「どうにでもできる」という意味だったと思って良い。
例:原爆投下候補地選定の過程も、手書き書き込みの資料まで確保されている米国の公文書管理。(こちら)
原爆投下都市の選定過程
1945年