ほぼ足りてまだ欲 その先

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駐米日本大使館

 開戦時に駐米日本大使館は公電の翻訳に手間取って約束の午後一時に遅れてハルへの通告が遅れたといわれている。時の駐米日本大使はいわずと知れた海軍出身の野村吉三郎(1877 - 1964)である。この肝心な時に、大使が外務省出身者ではなくて、軍人であったことの意味が大きい。ワシントンの当時の大使館は大使館員の執務棟と大使の執務棟は離れていた。参事官であった井口貞夫(1899 - 1980)が病に伏していたこともあって、それぞれの間はほとんど乖離していたといわれている。外務省出身者は当然わが庭と思っているだろうし、大使は大使であった。野村は日系二世米国人の男を現地雇いして、常にその男を頼りにしていたそうだ。その大使と外務省出身者とのズレがあの開戦時のずれを生じせしめたのだとすると、この国の官僚制度の弊害はずっと変わらず続いているということになる。野村も井口も交換船で帰国している。
追記
 青木冨美子著「占領史追跡」によると戦後すぐに日本に戻ってきたニューズ・ウィーク東京支局長パケナムが逢った時の野村吉三郎は公職追放になって「かつての勇ましさも、威厳も、古い誇りのように失って、やせこけた年寄りに過ぎなかった。銀行口座も凍結され、収入もなく、病身の妻の薬すら手に入れることができないほど困ってると訴えるのであった」そうだ。