ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

時代

 南沙諸島にフローティングの原子炉を浮かべるという中国のアイディアを聞いていると、30年前に見た上海の造船所を想い出して、世の中こんなに変わったんだなぁという感慨が深い。なにしろ人間の数だけでタンカーを作っていたんじゃないかというような造船所だったのが、原子炉を浮かべたものを造るんだというんだから、当時誰も想像しなかった。
 当時の中国は勿論鋼材なんて造れるわけもなく、外国から鉄鋼製品を輸入する五金公司なるものが窓口になっていたのではなかったか。
 造船所の現場では日本では普通だったグラスファイバーや強化プラスティックのヘルメットではなくて、籐で編んだ帽子を被っていた。とっても珍しくて私はいたく気に入ったけれど、頂戴!とはとても云えなかった。昼休み近くなると、みんな手に手に琺瑯引きの小ぶりな洗面器を持って工場の中をぞろぞろと歩いてくる。なんだろうと思っていたらそれが食器だったのはちょっとショックだった。しかし、考えてみれば、洗えば綺麗なもんだ。茶碗を大きくしただけだ。
 8万トン級のタンカーが岸壁に横付けされていて艤装中だといっていた。鋼材置き場には様々な板厚の鋼材が重ねられていて、よく見ると下の方はもう真っ赤に錆びていて、層状になって剥がれていたくらいで、一体全体いつ頃にそこに置かれたものか想像もつかない状態にあった。なにしろすべての鋼板が輸入だったのだから、今ある鋼材を使ってしか船が作れない。図面を渡しても、今ある使用可能な鋼材を使ってしか、見積もることができない。必要だから発注して、というわけにはいかない。それが計画経済というものなのだ。
 見積もって貰った中身をよく見ると、とんでもなく重量がかさんでいる。こんなに重量が重たくなったのでは、性能に影響が出る。しかし、説明は「それしか鋼材がない」だった。
 そんな昔の話をしたってなんの足しにもならない。しかし、わが国も高度経済成長期のまっただ中に原子力船「むつ」を建造した。1968年に起工、翌年進水、ここまでは良いが、1974年にようやく試験航海。ここで放射能が漏れてそれっきりだった。オイルショックの真っ最中の出来事だ。
 人間は、本人がそう意識していなくても、必ず傲慢になってしまうという業を抱えている。あの頃の日本産業界もまったくその通りだった。ま、今でもその余韻を抱えて生きている連中がいるのも確かだし、ましてや世の中を席巻しているつもりになっている中国にしてみれば、なんだってできそうな気がしてくるものなのだろうか。