ほぼ足りてまだ欲 その先

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質問

 日頃から疑問に思っていることがある。というよりは20年以上前から思っていることといっても良い。今を去る19年前に私は学生に戻った。片手間ではなくて、学習してみたかった。その前に学生をやっていた時には、愚かにもその学習という行為を理解できていなかった。なにも心に期することなく無為に時を過ごした。あの時の4年間の内半分くらいは時間を投げ捨てていた。すぐさま社会に出ても良かった。しかし、それだと金銭的に損をするのでそうしなかった。
 しかし、まともに学習したかった。そうして一年間通った学校では先生方がどんどん質問に答えてくれた。「話している途中でも、疑義が生じたら、あるいは反論があったら手を上げて、それを伝える」という行為は歓迎された。すぐさま反応が返ってくるというのは話を理解しやすいし、周辺に一緒にいる学生達にとっても、疑問を共有できるし、理解が深まる。良くポイントを突いた質問をすると、そこの先生方は「それは良い質問だ!」と反応をする。米国ではこういう反応を日常的に聴く。
 ところが自分が発表している側に余裕がないと、こうした質問、疑問で遮られると、そこから先の組み立てができなくなってしまう。翌年から移った先の大学でも同じように途中で手を上げたら、「質問は最後に聴きます」と逃げられるようになった。しかも中には一方的に喋り続けた挙げ句に授業終了のチャイムと同時に「ではまた来週」といって出て行っちゃうという教師すらいた。だから、考えに異論があったりすると、そこから議論になるということがない。つまりこれは完全なる一方通行である。
 しかも、その場に居合わせた学生達も、質問の一つ、疑問解明の一つの提案すらしないし、関心がない。あとになって同期だった若者達に聞いて驚いたのは、授業の終わりに私が手を上げて質問をすると、彼らはもう授業は終わりだからと片付けを始めたといっていたことだ。私が彼らの為にも疑問は解明しておかないと、なんて思っていたことはなんの足しにもなっていなかった。というよりも、かつての私のように、ただ義務的に時間を費やしていたことでしかなかったということで、彼らがその後の人生で何を思うかに問題は移っていっていたわけだ。
 これと同じことが記者会見の席でも起きる。発表者側が語り、発表をしたこと対して、記者から手が上がって質問をする。記者側は多分読者が思うであろう疑問をここで出して真実を引き出しさないと読者が満足しないと思わなくてはならない。しかし、そこで手を上げてする質問は他社の記者にとっても知るところとなる。だから、公式に会見が終わってから、その発語者を取り囲んでより詳細を知ろうとする。姑息である。共同記者会見は共同でやるべきだからだ。共同意識を簡単に捨て去るというか、抜け駆けである。授業の質問でも授業終了後に自分の疑義だけを確認に教師に取り憑くのは、卑怯だと私は思っていた。
 だから私は授業中に質問しない奴は利己主義者だと思っていた。今通っている保阪正康のレクチャーでもそういう人がいる。「質問は次回にまとめて」といわれたりするのだけれど、散会になってから自分だけ質問にいく人がいる。この人は日本語がわからないのだろうか、それとも自分だけは特別だと思っているのか。