ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

不可解

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 うちの区の図書館には三遊亭圓生の「圓生百席」があるんですよ。凄いでしょ?私はもうずいぶん前から全部借り出して自分のiPodに取り込んで楽しんでいる。このシリーズは落語のCDシリーズの中ではもうとにかく抜群の出来で、このシリーズを聴いちゃうと、他の演者のライブ録音のCDを聴くとなんだか物足りない。何しろ録音の音質が抜群で、単なる出囃子じゃなくて、それぞれにふさわしい邦楽の一節が腕利きの演奏で録音されている。挙げ句の果てには、いかにも圓生の自宅で語った「芸談」が入っている。通りを通る売り声が聞こえたり、圓生の自宅の時計のカチカチという音が入っていたりする。

 凄いんだけれど、図書館のシリーズには欠番がある。誰かが借り出したっきり姿をくらましたとか、意図的にパクったとか、傷が大きくついてしまって鑑賞に堪えなくなったとか、貸し出せないことになったんだろうと推察することができる。で、どうしてもそんな欠番をiPodに取り込みたくなるわけです。二枚組で3千円位なんだけれど、とにかく今はもう品物がない。それで、中古を探す。ひとつ見つけて発注したけれど、まだ届かない。

 それで、図書館に行った時に、informationのところに座っていたおばさんに自分が持っているものを寄付するってことができるの?と尋ねた。「もちろんです!」と反応されるのを予期していたんだけれど、返事は、「はい、でもどんなものですか?」というんだね。本の頁が・・といいだしたから「CDなんですが」というと、「歌詞カードが・・」というので「落語のなんですが」と言った。すると、あんまり嬉しそうな顔ではなくて、「でも、必ずしもそれが貸し出しに供されるとは限らないんです」と仰る。あ、なるほど、ものによるというわけだろう。傷がついているとか、ジャケットがぐちゃぐちゃだとか、汚れているとか、そんなものはとても不特定多数の人たちの利用に供するわけにはいかないだろう。ところが「それはどうしてなんですか?」とおたずねすると、どういうわけかこの方、はっきりお答えにならないんですよ。「ちょっとですねぇ」とか、「はい、そうなんですねぇ」とか言葉を濁すのだ。
 これじゃ、まるで「あんたが持ってくるものなんて信頼できるわけないじゃないのよ」といわれているような気がするのだ。なんでこんなうわべを濁すような対応をするんだろう。これじゃ「あぁ、そうかよ、じゃ、寄付なんてしねぇよ!」といいたくなってしまう。

圓生百席(18)小間物屋政談/盃の殿様

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圓生百席(42)紋三郎稲荷/夢金/彌次郎

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エノケンと菊谷栄

エノケンと菊谷栄

 これは演芸を語る、という本ではなくて、社会学的考察、とでもいうようなものなのではないだろうか。エノケンと、座付き作家だった菊谷栄。全く開かれた形跡がない。