米にしたって、年金にしたって、自公政権がネチネチと表面面を濁して逃げ続けている国会での議論を見ていると、これではこの国は根本的に暮らしやすい社会になることは、ほとんど不可能なような気がしてくる。少なくとも私が生きている間には実現しないだろう。
ようやく小泉進次郎が農水大臣になってちょっとは動くかもしれないという気になったのは、米の値段で、彼は備蓄米の市場への投入に際しては入札にしない、随契にするといい出した。そりゃ当然の話で、入札で全体の90数%をJAが落とした、というのはJAが値段を釣り上げて手中にしたということであって、これを市中に出したって安くなるわけがない。しかし、随意契約にするというのは相手を絞って、指定した価格で買えよ、ということであって、これは自由主義経済からいえば正反対の商取引になる。それでも、それで買った業者が必ずしも国民にとって喜ばしい価格で市中に出すか、といったら、それは保証の限りではないどころか、業者の勝手である。だから、強権を発動して、これ以上で売ってはならないとする販売価格を指定しなくてはならない。それでは自由主義社会ではなくて、社会主義社会ではないか、ということになるけれど、そうでもしなかったら、この米騒動は収まらない。
それでも、「じゃ、今店頭に並んでいる米はどうするんだ」という疑問が出る。だって、その小売業者はそうせざるを得ない仕入れで持ってきているからだ。(そうじゃないかもしれないけれど、つまり便乗して釣り上げているとか)。備蓄米が比較的安値で市中に出回れば、彼らのその米は店晒しになる。この際、それは国がその売値で買い取るしかない。
という具合で、明らかに自公政権の大失敗だったといって良い。これは政権を返上しなくてはならないほどの大きな失敗である。
そんな米と同じように、年金のシステムも永年の自公政権が大失敗を重ねて、ここまでぐちゃぐちゃにしてきてしまった。本来積立だった年金システムをぶち壊して平然としてきた。
その根幹はどこにあるかといえば、有権者にある。見て見ぬふりをして、どうせ問題は今起きているわけじゃない、位の感覚で自公に票を入れてきた有権者にあるし、どうせ一票が動いたって変わりゃしないよと、民主主義を裏切ってきた日本の国民にあるんだから、しょうがない。
同じような厚さの本を二冊借り出してきた。ところが1998年に出版された本はしっかりしているのに、2006年に出版された方はもはやグラグラになってしまっていて、本としての人気が明らか違っていることがよく分かる。しかし、2006年出版本がなんでそんなに人気があって、次から次に読者の手を経てきたのか、よくわからない。自炊しながらチラチラと見ていただけだけれど、何となく立花隆の切り口を思い出させるような本だ。Amazonのレビューを読むと大人気のようだ。それにしても私はなんで知らなかったんだろう。世の中は知らないことばっかりなんだな、本当に。