ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

そうだったのか

 わが家から地下鉄で三つ目で降り、ちょっと歩いたところにある小料理屋といった感じのお店に初めて行った。多分一階に入ったらちょっと違うのかも知れないが、一階はその時(といってもまだ6時だったが)既に一杯で二階に上がる。二階のお客はまだちらほらなんだけれども、多くの机に予約席の札がおいてある。入口のすぐの席が空いていたので、そこに座る。煮奴鍋、鮪ぬたで生ビールを一杯頂いてから樽酒を常温でお銚子に入れたものに移る。私はかつて日本酒を飲むと翌日にろくなことがなかったので、ずっと敬遠していた。しかし、昨年の夏に友人が持ってきてくれた浦霞禅なんてものを呑んだらこれがうまい。日本酒にどんなものがあって何が違っていてどんな味がするのか全く知らない。それでも今や翌日がどんなことになっても(例えば酔いが醒めなくたって)構わない日があるわけで、呑んでみるようになってきた。
 この店が10数年前に建て直したのは知っていた。名前も30年くらい前から聞いていた。それでも入ったことはなかった。それはやっぱり自分が酒飲みでなかったことも理由のひとつである。
 しかし、それよりも敷居の高い理由があった。13年前に死んだ親父の従兄弟がこの酒場に入り浸りなんだという話を聞いていたからである。それを聞いたのは丁度30年前に私が地方勤務から帰ってきて東京に住むようになり、その時に姉から「あのおじさんが住んでいるのが近いんじゃないの」といわれてからである。その伯父はある会社で土木の技術者をしていた。
 私が幼い頃からたまに家に遊びに来るこの伯父はいつもにこにこしていて、難しい話をしている記憶がないだけでなく、いつも私たち子どもをからかって遊んでくれていた。冬場は掘りごたつの中で、足の指で子どもの足先をつねったりしてふざけていた。私たちはこのおじさんが帰ったあとしばらく、このこたつの中でつねる遊びに熱中し、おふくろに叱られた記憶がある。子ども心になんとなくこの人は悪い人じゃないんだと思っていた。
 その伯父から貰った年賀状の住所を見て、そうだ、折角東京にいるんだからあの伯父を訪ねてみよう、と思い立ったのが20年ほど前のことである。その住所はマンションだった。夏の午後だったと思う。ベルを鳴らすと人が歩く音が中からする。確実に誰かがいる。名前を告げるとがちゃりと扉が開いて「どうしたんだ?」という表情をした伯父がいる。多分、うちになにか変わりがあったとでも思ったのではないだろうか。この時にどんな話をしたのか、全く覚えていない。しかし、心臓の具合がそれほど良くないのだという話をしていた。なんだかがらんとした部屋に落ち着かない気持ちがした記憶がある。私の親父を今度連れてくるといって辞した。あんまり係累と逢いたくないのかと気を遣った。なんとなく俗世間から離れた生活をしていたような気がしていたからである。
 ある日、親父とおふくろを連れてこの伯父のところに行った。伯父はなんだか子どもがチャンバラごっこをしているところを家の親に見られたような雰囲気だった。その後、今度は私の車で伯父を乗せて実家に行ったこともある。その帰り道、私が伯父の家に上がる坂道が伯父の心臓には良くなさそうだと思って送ろうとするとここで降りると坂の下で車を停めさせた。そこからこの酒場は遠くない。それを最後に伯父からは年賀状も来なくなり、私もなんだか伯父のテリトリーに踏み込んでしまう禁を犯したような気がして、遠巻きにしていたといったらよいだろうか。
 今日の話で、その伯父がわずか三年前に死んでいたことを知る。私はとっくにその伯父は何もいわずにいってしまったのだろうと思いこんでいた。思いこもうとしていたというべきだろうか。その頃であれば丁度一年ほど前に死んだうちのおふくろもまだまだ少しは昔の記憶があった頃である。なによりも今となると、その伯父を送る儀式だけには並びたかったという気がする。結果として伯父の最期を見て見ぬふりをしていたような気がしてなんだか申し訳なかったという気持ちに駆られる。こみ上げるものがある。両親とも既にない現在、こうした伯父の記憶を自分のものにしておきたかったと思う。
 その店の旦那は私がその伯父の従兄弟について語ろうとすると鎌倉にいる伯父、富山にいる伯父の名前を次々に口にされた。間違いがない。こんなところにも私に関係のある人がおられたことを今頃知ることになった。また一度お伺いしようと思う。