ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

SFO思い出巡り

 ユニオン・スクウェアからチャイナ・タウンに向かって歩く。今日は日曜日。歩いていると観光客があふれんばかりである。なんだかPowellの通りが静かだと思ったらケーブルカーのどこかが故障しているらしくて走っていないのだった。カリフォルニア通りの方は走っている。
 Bush St.と交差するGrant St.にチャイナ・タウンの入口のゲートが建っている。その前の角にKimptonグループのHotel Triton San Franciscoという随分洒落たホテルがあって、その一階は今はコーヒーショップだ。その昔、ここは日本航空のクルーの定宿になっていた比較的簡素なホテル(どうしても名前が思い出せない)があった。当時深夜になるとフロントには生意気で私たち日本人を見下しているStanfordのアルバイト学生がいて(多分彼は宿題が忙しくて私を相手にする暇がなかったのかも知れない)、あとは夜勤のベルボーイのお爺さんがいるだけだった。そのお爺さんと私は「なんでアメリカは一斉にガンを規制しないのか」という論争をしていた。そして最後に彼は必ず“フロンティアを知らない外国人のお前たちには理解は出来ないのだ」と言い放った。それでも誰も出入りしない深夜のホテルのフロントは暇つぶしにはもってこいだった。そして一階は「みどり」という名前の土産物屋兼カウンターの日本食屋になっていた。何人もの日本人のおばさんが働いていて二十歳(はたち)そこそこの私は、そのおばさんたちの威勢の良さに圧倒されていた。カウンターの上には当時良くコーヒーショップにはあったガラスの重い蓋になっている丸いケースにそれはそれは美味しいドーナッツが入っていた。ある日行ってみるとおばさんのお一人が「今日は親子丼があるわよ!」と仰る。飛びついて食べた。またある時はこっちを見透かす様に「餃子があるんだなぁ」と仰るのだ。我慢が出来る訳がない。またある時はRenoのKENOで$12,500.00を当てた人が出たってよ!」と金欠病のひ弱な日本人を真剣にさせる様なことを大声で話している。多分その中の何人もが戦争の後に駐留軍で日本に来ていた旦那と米国に来た方だったのかも知れないと、後になって思った。多分あの方たちの大半はすでに80歳を超えておられて中には亡くなった方がおられるはずだ。あれからもう38年もの年月が通り過ぎた。
 週末の夜になるとバス・ボーイをやっているとか、モグリで働いているといった日本人の若者たちがBroadwayあたりに集まってきては情報交換をしたりしていた。時には仲間に入れて貰ったりしていた。Broadwayにはよく知られた今で云うライブ・ハウスがいくつもあって著名なミュージッシャンが目白押しだった。チャージも今程高くはなかった。もうすでに閉めてしまった「Basin Street West」ではMiles DavisB.B. Kingも聴いた。「El Matador」ではギターのKenny Burrellを聴いた。まるで体育館の様だったMarket Streetの下の方にあった「Filmore West」ではJeffersonも聴いた。しかし、それもとっくにない。そりゃそうだ、もう38年も前の話だ。歩いているだけでよいのだ。それだけであの頃の風がひょっとすると吹いてくるかも知れないから。
 今日は一日チャイナ・タウンあたりを徘徊。5時間歩いてくたくたとなる。チャイナタウンは本当にすごい人出だけれども軒並み土産物屋。まぁ、いってみれば浅草の仲見世の雰囲気。しまいにはおもちゃの日本の刀になにやら意味のない漢字が書かれたものやら日本人形なんかまで置いてあって中国とそのほかのアジアなんか全く区別がついていなくてそのままだ。あげくにインド系の置物屋まであったりして、いったいこの通りは何のための通りなんだろうともう訳がわからない。一本西に行くともうほとんどが中国系向けの食材屋。野菜のまぁ、豊富なこと。店頭に置いてある箱から見るとそのほとんどはカリフォルニア州フレズノの産。
 JTBパブリッシングの「アメリカ西海岸」を読んでいたらなんでもブロードウェイに金山酒棲と書いてある美味しい飲茶があるという。おおむねこの種のガイド本はあんまり当たらないことが多いのであんまり期待はしていなかったけれど、行ってみると入り口から受付まで人でごった返している。その雰囲気がシドニーの人気の飲茶の店とそっくりだったので、これなら間違いなさそうだと入っていくと受付をかわいい若い女性がやっている。いったいどれほど時間がかかりそうかというと、人数によるという。二人だといったらすぐに入れるという。早速奥にすわり(奥というのは厨房の傍で新しい飲茶をすぐに捉まえることが出来るのだ)、ずっと食べたかったチャイニーズ・ブロッコリーシドニーで私たちが呼んでいた青菜を取り(茹でただけで、食べる直前にオイスターソースをかける)、シウマイのような味のする餃子、プロウンのシウマイ、ちまき、海老のすり身を茄子に挟んで揚げたものなんてものをとって美味しく食べる。久しぶりの本当の中国飲茶で大満足。
 左隣がお婆ちゃんとおばさんとかわいい子どもの三人。そのおばさんに「take outの箱なんてものはもらえるものでしょうか?」とお伺いするとそのおばさんが「大丈夫ですよ、いえばもらえます」といってご自分も箱をもらった。女性二人と子どもでは食べきれないのだろう。するとそのおばさんが「日本人なの?」と聞くものだからそうだと答えたついでに、あまりにもその子がかわいいので「かわいいねぇ、彼女は映画スターにでもなりそうだ!」というとくだんの「彼女」が「僕は男だよ!もう小学校4年だよ!」というのである。まるでどこかのテレビのCMのようなんだけれど、実際その子はとてもかわいいのだ。おばさんがいうにはその子のお母さんはイングランド人で、お父さんが中国人なんだそうだ。それでもその子は基本的にはお婆ちゃんに似ていて、その中国人のお婆ちゃんがそもそもチャーミングな人なのだ。
 右隣に途中から座ったおばさんは連れ合いがトイレに行っている間にそれぞれの前に置かれた箸と取り皿を全部お茶で洗い、そのお茶をトイレに捨てに行った。なるほど、そういえばシドニーにいたときには自分でも洗いこそしなかったけれど、紙ナプキンで拭いていたっけなぁ。人間はちょっと離れるとすぐに習慣を忘れてしまうもののようだ。
 フェアモント・ホテルに入って例の地震の写真を見て歩く。ボウル・ルームではなにかの学会が開かれているらしくて多くの人たちが集まっていて、その中には日本人もいる。こんなところで開かれる学会だったら出席したいもの成り。サン・フランシスコには本当に泊まってみたいホテルはいくらもあって、実際にこの目で見て要領がわかったときにはもうその旅は終わっている。
 帰る途中でPowell Streetにある巨大な本屋さん、Bordersにはいる。「Into the wild」を書いたJon Krakauerの「Under the Banner of Heaven」を発見。もう4年以上前の作品にもかかわらず今でも目立つところに置いてあるので、これなら読んで面白いのかも知れないと何日かかるかも知れないのに購入に及ぶ。この本はモルモンの事件が題材になっているのだけれど、この本を読んでいるおじさんをSalt Lake CityからSan Franciscoへ向かう飛行機の中で見たのだ。(追記:実はこの本は日本では2005年に「信仰が人を殺すとき - 過激な宗教は何を生み出してきたのか」というタイトルで河出書房新社から出版されていた。)historyのジャンルの棚を見て歩いていると、「First into Nagasaki」という本を発見。え、こんな本が出ているのかぁ、聞いてないもんねぇ!でこれまた確保。George Weller著。
 夜になって38年前からお世話になりっぱなしのお友達の家に三回目の訪問。むちゃくちゃごちそうになり、挙げ句の果てに酔っぱらってしまって送っていただく。いつまでもお世話になりっぱなしで本当に恐縮。

Under the Banner of Heaven: A Story of Violent Faith

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信仰が人を殺すとき - 過激な宗教は何を生み出してきたのか

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First Into Nagasaki: The Censored Eyewitness Dispatches on Post-Atomic Japan and Its Prisoners of War

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