ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

教養

 なにも自分が充分教養に溢れているなんぞと偉そうなことをいう気は全くない。
 それでも、人前で自分がどれほどこれまでに他人がおぉ〜これは凄い!というようなことをこんなにやってきたんだ!と自慢げに披露するような人が教養を備えているというのは間違っているなと思う。それは人間だけが持っていると思われる「謙虚さ」というもののかけらも見えないからである。
 それと同じように、人間が人間の本能に従って行動することのどこが悪いのか、という人にも教養というものがあるというわけにはいかない。それは動物的だからである。本能のままに行動するのであれば、そこには葛藤も苦悩もなにもなくて、ただ直情的に行動を表す、ということだからである。
 酒に酔っぱらう、あるいは薬でたがが外れた状態というのはそうした人間を人間たらしめる制御力が雲散霧消した状態になる。だから、「解放」されたのだと誤解するのかも知れない。
 私も直情的に行動し、直情的に演奏し、直情的に反応することが人間としての根源なんだと誤解していたことがある。しかし、人間としての時間を経るに従って考えが変わってきた。若い時はそれでも良かったのかも知れないし、自分の思うままに表すことが若さだといわれていたことがあったけれど、それは直感力で人生を判断するってことだったのだ。
 それはある意味、大変に危険なことでもある。しかし、そうした向こう見ずさ加減というものが時として大きな力を得ることでもある。
 だから、国を支配したり、リーディングしたりする場合にはこれではいけない。70年以上前にこの国を戦争の道に引きずり込んだ勢力はこうした直情で国を引きずり回した!着陸点のない異常事態にこの国とそこに暮らす人たちを落とし込んだまま、最後は全員で朽ち果ててしまえばいいじゃないかと、あたかもカルト集団であった。
 今、集団的自衛権という定義付けされていない言葉を振り回し、侵略という言葉の定義が国際的にも共通認識されていないだなんて、まるで昨日今日ちょっと小耳に挟んだ論法を得意げに振り回すその辺の洟垂れ小僧のように得意げに振り回す。
 彼らからこの国の将来をどんな状況に持ち込ませようとしているのかというイメージを捉えることができるかといったら、そこに大きな問題点が転がっている。
 日頃の友達としての付き合いの中にもそんなやりとりが垣間見える時がある。そして私が気取って見える時もあるのだろう。真の解放の中にあるのか、あるいは誤解の解放の中にあるのか。
 酔っぱらって裸になる奴が解放されているのかといったら、そりゃ間違っているんだよ。わからねぇだろうなぁ。
 NHKという体制べったり放送局(他にも体制べったり放送局はあるけれど)には会長と経営委員会のふたりの委員という無教養さ加減を恥ずかしげもなく露呈しているのがいる事も書いておこう。