ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

歌舞伎座

 二月公演は初代松本白鸚(先代幸四郎)二十七回忌追善興行。口上があるからと夜の部に行く。昼の部が撥ねる前に劇場に到着してしまったのだけれど歌舞伎座の前には団体のバスが何台も停まっていた。夜の部も団体の受付が出ていたからこうしたお客さんも大事だ。それでも下はどうか知らないが、私の定席、三階席は半分くらいの入りかもしれない。一幕見物のお席は埋まっていた。三階席だから花道はほとんど見えない。しかも前の席の人が身を乗り出すともうそれだけで頭が邪魔になってしょうがない。幕間に「身を乗り出さないでください」とアナウンスがあってもご本人は何のことか分かっちゃいないから全然改善されない。そろそろひょっとしたら芝居が始まる前に誰かが、かつての中村座でやっていたように瓦版屋かなんかの格好で出てきて前ぶりをやらないとだめかもしれない。
 歌舞伎座は建て直すという話を聞いているけれど、あの椅子はどうやらもう限界かもしれない。今時あんなに小さい椅子であんなに狭い椅子間隔はもう一昔前のものだといっても良いだろう。今の若い人たちだったら収まらないだろう。私のような小さい人間でも狭いなと思うのだから。夜の部は「寿曽我対面」から始まる。大名連中がぞろっと10名定式幕の前で渡りせりふ。幕が開くと冨十郎の工藤祐経が控える後ろに大名連中が控える。金屏風に張られた紋がなんだかどこかの不動産屋か建築会社のマークのようで面白い。そういえば私が子どもだった頃に曽我十郎・五郎の兄弟の仇討ちの話を聞いていたからずいぶんとこの兄弟については幼い頃から親しんでいたような気がする。箱根の芦の湯近辺にある双子山にはお墓があったような気がする。富士の裾野、白糸の滝の傍にある音止めの滝なるものはその音がうるさかったが兄弟が煩いといったら音が止まったと云われているという話を、多分小学校の頃に聞いた記憶がある。だから曽我十郎・五郎の話には私は抵抗がない。曽我家五郎八は何か関係があるのだろうかと幼心に思ったものだった。しかし、ここしか見ない人にはこの話はどうなんだろうか。橋之助の十郎は綺麗な粧であったけれど、風邪でも引き込んでしまったのか、可哀想な声になっていたのは辛かった。三津五郎の五郎が受けたかわらけに酒を注がれるや否や、たたきつけて割ってしまう、その後三宝までぶち壊す、その気持ちが露わになる。その後後見が赤い布を持ってきてその破片を拾うところがなぜか私は嬉しくて。
 口上は幸四郎が口火を切り、白鸚のエピソードを披露する。晩年に麻酔の効かない手術をしたそうで、術後に「痛いでしょ?」と聞くと「分からん」と答えたのだそうだ。何が分からないのかと重ねて聞くと「人間が普通我慢できる痛みがどこまでなのか、それが分からん」と答えたそうで、あの人が我慢強い人だったと回顧する。白鸚が息子の幸四郎襲名と孫の染五郎襲名と一緒に三代の襲名披露をしたのは1981年10月のことだそうで、11月に文化勲章を受章し、翌年1982年の1月に亡くなっている。だから白鸚としてはわずか三ヶ月の存在だったということだ。なんだか身近でない、そして未だに幸四郎というと先代を思い出してしまうのはそうしたことも関係しているのかもしれない。それにしても71歳で他界したわけで、今から考えると早い。口上の席には白鸚の弟である今年米寿になる中村雀右衛門も同席。さすがにプロンプターが助け船を出していた。そういえば最近はあまり聞いたことがないが、昔は良く始まって間もない時期に行くとどんな芝居でもプロンプターの声がしていたものだ。他には勿論次男坊の中村吉右衛門。彼はしきりに「実父の」という。「父」で良いんじゃないのか、と思ったら彼は初代吉右衛門の養子となり、波野久信という本名になったのだから養父と実父がいるわけで使い分けなきゃならん。初代吉右衛門というのは当代吉右衛門の母方の祖父ということになる。吉右衛門は夜の部はこの口上だけで「どうぞみなさま、昼の部にもお越しくださいませ」と宣伝。勿論染五郎もいて、オヤジの幸四郎と同じ柿色の裃。あとひとりは尾上松禄である。昼の部の最初の演しものは「小野道風青柳硯」でこれは昭和21年に白鸚、当時の幸四郎が演じたものだそうだ。口上の背景には松が書いてあり、これは絵が好きだった白鸚が描いた松の絵を背景に用いたものなのだそうだ。観客一同「ほぉ〜!」といったけれど、幸四郎があわてて「二階のロビーにその原画が飾ってございます、それを大道具さんが描き写してくださいました」といっていた。そして家紋の「四つ花菱」が描かれている。帰ってきてからこちらを見て、ありゃ残念と思った。口上の後イヤフォン・ガイドでは往年の白鸚のインタビューを聴くことができる。懐かしい声である。それでもなんだか、声は随分違うけれど、喋っている口調やら、中身に最近の勘三郎が似てきているなぁと思った。なんでだろう。
 弁当幕間のあとは「熊谷陣屋」であるが、これはあんまり動かない芝居なので、前半は私には辛かった。後半になってようやく興味が湧く。最後は染五郎の鏡獅子である。これは誰が見ても楽しいだろう。これが始まる前に一幕見物の席を見たら外国の方が並んでいるのを見たけれど、これなら喜ぶのではないだろうか。こちらの方のブログを見ると胡蝶の二人は「胡蝶の梅丸クンと錦政クン」だそうだ。しかし、染五郎の娘踊りはずいぶんと艶っぽうござる。あの手はたまらないねぇ。
 お囃子方も見ていて実に飽きない。なかでも例の染五郎の小姓から獅子に変わる間のバッファというかあの辺の長唄に呑み込まれてしまった江戸浄瑠璃の豪放さ、いわばアドリブの盛り上がるテクニック。今日はお二人目もそんなに長くない間に獅子がやってきた。連れあいはあれが三人目にまでいったのを見たことがあるという。
大向こうからの声も様々で、さすが歌舞伎座だなぁとは思うけれど、中には落語じゃないが、「お薬三日分」みたいな声もある。巧い人は本当に役者じゃないのかと思うような声だ。