ほぼ足りてまだ欲 その先

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教え子

 中央大理工学部の教授が学内で刺殺された事件の容疑者が捕まってみるとかつてのゼミ生だったという一報は相当にショックな事件である。殺してしまうほどの恨み、というレベル(そんなレベルがあるのか、という話にはなるけれど)が随分低くなってきてしまっているんだなぁと再認識される。
 これが例えば執拗にパワーハラスメントが繰り返されていたとか、衆人環視の前で徹底的に罵倒された、という状況があるのなら考えられないことはないとしたとしても、その程度がどのあたりを境にそうした行動に踏み切らせる動機となり得るのかという点も人それぞれだろうし、自身が育ってきた時期、場所といった環境にも大きく左右されるだろう。
 野沢那智がかつてラジオで話していたことなんだけれど、劇団で練習生の指導をしていて、彼の厳しい指導に練習生の親から訴えられたことがあるのだそうだ。尤も彼の指導は業界でも有名なんだそうだ。そんなことをいったら蜷川もそれが売り物だと思っているんじゃないかというほど激しいという噂を聞く。稽古場に平気で灰皿が飛ぶという。それでもこの業界はそんな状況にあることが当たり前だとかつては思われていたけれど、そんな現場でも、ひょっとしたら今やそんな状況ではないのかも知れない。

 2001年頃のこと。私が入り直した大学の4年生の時に、登録者が8名、日頃の出席者が平均して4名という社会調査法の授業が進み、あと2回ぐらいを残すのみとなった頃、授業が始まって少し経ったときに突然扉が開いてひとりの男子学生が入ってきた。それまで見たこともない学生でしかも授業中に挨拶もなく、立ったまま「就活なんかで出られなくて・・レポートかなんかにしてくれませんかね」と先生と対面する形で座っていた私の頭越しに先生にいった。随分ふざけた男だなぁと一言いってやろうと思ったら、先生が言下に「この期に及んでそんないい方はないだろう。到底考えられない」と斬り捨てた。私は心の中で「そうだ、そうだ、ふざけんじゃねぇ」と叫んだその瞬間に、この学生はいうに事欠いて「なんだ、話になんねぇや!」というなり扉をばたんと閉めた。
 彼はどんなもののいい方をしたらいいのか、どんな時に先生を捕まえてどういう手に出たらいいのかといったことを考えることができなかっただけではなくて、おもねるとか、ヨイショをするとかという手練手管も考えられなかったということなのだろうか。それはそういう訓練ができるチャンスがそれまでの彼の人生の中になかったということなのだろうか。
 この事件の容疑者はこの被害者の先生のゼミにいたというのだから日頃先生と接するチャンスがたくさんあったのかも知れないし、もしかしたらゼミ生がたくさんいて胸襟を開くところまでいかないほど人数がいたのかも知れない。学部生のゼミなんだからその可能性はある。私が出席していた恩師のゼミでも学部生は一学年に15人ほどいたからそのメンバーは千差万別だったし、やる気のある学生もやる気のない学生もいた。やる気のある学生にはやはり話すチャンスも増えるけれど、やる気のない学生とは話題を探すのも大変なくらいだし、提示してくるものも話にならないものもある。
 やる気がなくても要領の良い学生は心配ない。調子よく世の中を渡っていくからだ。しかし、要領の悪い学生というのが一番心配だ。うたれ弱いからだ。簡単にうちひしがれてしまう。落ち込んでいるときに聴いてみると「え!?たったそれだけのことで?」と思ってしまうのだけれど、彼らにとっては私にとっては「たったそれだけ」のそれがとてつもなく重大なことになっていて大きく、とてつもなく大きくふくらんでいる。それは外からは黙っていたら想像がつかない。
 そんなことを思っているんだったらいってみればいいじゃないか、ということもいえなかったりする。
 この容疑者はひとり住まいだったようだけれど、話し相手がいたのだろうか。呑んでバカをいう相手がいたのだろうか。書き続けることによって安全弁とする人もいるけれど、書き続けることで煮詰まっていってしまう人もいる。
 学校の内部に詳しいものの犯罪だったに違いないという読みが一般的だった事件だけれど、思った通りで、とても残念だ。学校の中の事件というのは人と人の関係でしかない。