ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

実にとほほ・・

 今頃になって、ようやくこの年齢になって気がつくのだけれど、若い世代になればなるほど、皆さんが育った環境がどんどん良くなってきたわけだから、私たちがガキの頃に憧れたような物欲を彼らはごくごく普通のことであるという状況で育ったわけだ。
 だから、その辺のバックグラウンドをお互いに認識しないで話していると要らぬ誤解を生まないとも限らない。
 大体、私の年代でピアノが弾けちゃう人なんてのはそんなにたくさんいたはずがない。なにしろピアノそのものがない。早くして死んでしまった遊び仲間なんかは長ずるに及んで一体何を考えたのか、こどもたちのためにではなく、自分のために「俺はピアノを弾きたかったんだ」といってスタンドピアノを家に買ったくらいだ。
 私の周りで小学生の時にピアノのレッスンを受けていたのは医者の三人兄弟だけだ。彼らの住宅は今から考えるとそれ程大した住宅ではなかったのだけれど、診察室と受付を挟んだ反対側の住居は南側はそれはそれはさんさんと陽の降り注ぐ開放的な洋間で北側には今でこそまったく珍しくも何ともないシステムキッチンのような洋風な台所になっていた。そもそも普通の日本の家の台所というのは洗い場がやたらでかい。途端張りだったり、タイル張りだったり、石だったりした。それに引き替えて西洋風のシンクはなんであんなに小さいのだろう。それでも日本のシステムキッチンはシンクが大きい方だろう。あ、また話がどうでも良い方にいっちまう。
 で、彼らは若いお姉さん(多分音大生のバイトだったんだろう)にピアノを習っていたのだけれど、その日はお姉さんがばぁ〜んと弾いてどの和音かを答えるというのをやっていた。私はオッたまげてしまったのである。「ばぁ〜ん」「ハ長調!」というのである。もうこの兄弟は天才だと思ったけれど、長男はそのまま医者に、次男は大学でラグビーをやってジェネコンに。三男はどうしているのだろう。
 大学に入って一緒にバンドを作った男が、なぜか知らないけれど、適当なピアノを弾けちゃったりした。多分あいつも子どもの頃にちょろっとピアノを習う状況にいたんだろう。しかし、私の周りにはもうこんなもんである。サンフランシスコで長いことピアニストとして暮らしている人がいるけれど、一度彼に「なんでピアノ?」と聞いたことがあったのだけれど、その回答はいつも、持って歩く必要のない、片付けが最も早く終わる楽器はピアノだった、というものだけれど、やはり幼少期にはちゃんと習っていたんだろうと思う。
 しかし、今の青少年の中にはキーボーディストはいくらでもいる。ごく普通に弾いてみせる人たちがいくらでもいる。それはやっぱり育った時代が違うということだ。そう考えると私たちの世代のキーボード能力者はさほど多くない。私に至っては全くの話、トホホ・・だ。
 英語もそうだ。私たちが子どもの頃は外国行くことがとりあえず殆どなかった。普通に生活していたら外国に行くなんてことは絶無だった。ましてやよっぽどの国家公務員であるか、大きな商社の会社員でもない限り親の転勤に付き合ってそのまま外国暮らしになるなんてことは皆無だった。
 小学校4年生の時に私は国内で転校した。ひとりの元の小学校の同級生はその後シンガポールに引っ越していったそうだ。彼女の親は大商社勤務だった。そして私が中学3年の時に1年下の学年に戻ってきた。当時はシンガポールには補修校もなかったはずだから、彼女は現地校に行っていたのだろう。不思議なことに彼女が戻ってきた中学は元の小学校からはとんでなく離れた学校だった。まったく偶然の話だ。
 そうした経験をしているのは、私の周りには彼女たったひとりだ。普通に中学・高校で英語の勉強をしていても上の学校への入学試験対策でしかなくて、だからそれが終わってしまえばそんなものなんの役にも立たなかった。ただ、私は前にも書いたけれど、大学受験のためとは殆ど思えない英語塾にいっていた。だから、大学でまったく勉強しなかったのに英語は私の中に熾火(おきび)のように残っていた。その後の社会で時として必要になる局面ではその熾火に一生懸命顔を真っ赤にして息を吹き付けて火をおこしたものだ。
 私たちが社会に出た1960年代末から1970年代にかけては、どんどん英語力が必要な仕事が増えていった。1964年の東京オリンピック以降といった方が良いだろうか。それでも教育制度は変わらないからそんなにいっぺんに英語力のある人が増えるわけはない。なにしろ一般的に日本で生まれ、日本で暮らしている以上、英語力なんてまったく必要ない。必要に迫られなくてはそんな能力必要ない。必要がないんだから入試用の知識は即刻失われていく。
 私も英語を必要とする生活から足を洗ってから既に10年が経った。するとどんどん私の英語力は錆び付いていく。眼に見えて錆びるのだ。まず一番に専門的な論文を読みたくなくなる。地道にこつこつ読むことが面倒になる。喋るチャンスがなくなる。書くことなんて絶無になった。
 近頃は小学校でまで英語の授業をするようになったんだそうだ。これまで何十年と中学から英語の勉強をしてきたのに、普通に喋れる人が増えないからといって小学校から授業をすることになったのだろうか。そうだとしたらそれは間違っている。必要のないところで勉強したってそんなものは入試のための要素としてしか機能しない。もしこれでも日本人の英語能力(どの要素について期待しているのか知らないけれど)が向上しなかったら、幼稚園からやるのかね?それとも胎教英語学校を創るのかね?