ほぼ足りてまだ欲 その先

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南へ


 南へといってもうちから南の方向へ、ということで、別に誰かさんみたいに、沖縄へとか、ハワイへ、というわけではない。
ところが今日もやっぱり快晴なんだけれど、風が冷たくてねぇ、歩きはじめは手袋なしには歩けない。だから、カメラを取り出す気がしない。その上、分厚いコートを着るものだから、斜めがけしているカメラも取り出しにくい。

 いつものようにもろに南へ歩くと、昨日と一緒になってしまうから、少し西に連れて、できるだけ裏道をたどって南へ向かう。とりあえずの今日の目標は何軒も解体が予定されている都営アパートの一つを見に行こうというもので、こっち界隈はほとんど10数年ぶりくらいである。かつて親戚が帽子屋を営んだいたあたりはあんまり変わっていないんだけれど、突如として、何軒かがいっぺんに潰されて、ビルディングを建てているところに遭遇する。そういうのはほとんどがいわゆるマンションで、この界隈だと、11階くらいから高くても15階くらい。タワーマンションなんてめったに遭遇しない。電車利用にしても駅まで6-700mはあるだろうし、荒川が氾濫したら多分水没するんじゃないかな。地下に駐車場なんか造ると後で面倒になるんじゃないだろうか。

 都営小島アパートは昔は三味線堀市場と呼ばれていた。1964年(東京オリンピックの歳)竣工だというから、去年で築58年だったわけだ。ここで買い物をしたことはないけれど(いくらなんでも離れすぎている)、ひところ会社へタクシーで急いだ頃に朝通る経路になっていた。だから、よく見たものだった。1982年後半から3年半ほどの間で、ほぼその後は世の中はバブルになっていった。その頃にはもう斜陽のセクションに飛ばされていたから、ほとんど恩恵を受けてはいなかった。ただ殆ど仕事にならなかった。それでもクビにならなかったのはバブル景気のおかげだろう。そういえば、業界の某企業なんぞは株運用セクションを創設して、まるで証券会社のようなバブルぶりだった。「私達は愚鈍といわれようと、本業でやっていく」と宣言して、バブル崩壊後に同業他社に吸収されてしまった。
 当時11階のアパートは相当に目立ったのではないだろうか。今でも、この界隈では概ねこれくらいの高さのビルが通りの両側に立ち並んでいても目立つ。当時は170戸あったアパートを建て替え後は111戸に減らすというのはどうも感心しない。というのは民間アパートに入りにくい高齢者を収容するのは公営の役割でもあり、どんどん増える高齢独居者に住居を提供するのは自治体の役割の一つでもある。
 昨年閉鎖されたこの建物を再建する工事が始まるのはなぜか来年の年末だと表示されている。その前にこの建物を解体するわけだけれど、ここにおられた住民の皆さんは一体どこで暮らしておられるんですかね?

 実はこのすぐ傍に「佐竹商店街」というかつては結構賑わった商店街がある。もうとっくに歯抜け状態で、時々近所に来た時に覗く。もはや時間の問題か。蔵前あたりの「おしゃれ店」が来なくても良いから、何か、起爆になるような変化が起きたらいいのになぁと思う。
 多分伊東四朗はこの辺の生まれだそうで、小学校が竹町小学校だったとラジオでいっていた。ただし、ご他聞にもれず、竹町小学校もとっくに合併していて、今では「平成小学校」と呼ばれている。なんとも芸のない名前でこれにした役人連中のお粗末さには絶望する。多分日本中に平成と名付けた公立学校がごちゃまんとあるんだろう。なんなら平成のついた大学すらある。