ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

戦後初めてオーストラリアに入港した日本の商船

 1952年1月、一隻の日本の商船がメルボルンに入港。戦後初めて日本からやってきた商船である。船の名は「Orient Maru」であると1952年1月16日付のタズマニアの地元紙The Mercury紙が告げている。当然豪州各地の新聞にも掲載されているのではないかと推察することが出来る。
 サンフランシスコ講和条約は1951年9月8日に全権委員によって署名され、翌年の1952年4月28日に発効しているわけだけれども、この「Orient Maru」はこの条約が発行する以前にかつて敵対していた国の港に入港していることになる。日本は豪州にとって唯一の直接攻撃を受けた敵である。ダーウィンは60回以上の空襲を受け、シドニー湾には特殊潜行艇が潜入して攻撃し、係留中だった英国艦が被害を受けて死者も出ている。その上、パプア・ニューギニアを中心に多くのオーストラリア軍兵士が日本の戦時捕虜となり、そのうちの多くは日本軍の戦時捕虜に対する過酷な扱いゆえに命を落としていることを考えると講和条約が発効する以前の元交戦国の港になぜ向かったのだろうか。日本の新聞をこれから詳細に調べてみようと思っている。
こちらのサイトにアップされているのは「おりえんと丸」で英文表記はそのままの「Orient Maru」である。こちらのサイトでわかったのは、この船が進水したのは1911年9月で、建造ヤードは英国のNewcastleであるが、1951年に第一汽船が購入して「おりえんと丸」と改名したとされている。総トン数5,416G/T。1953年1月にボイラーを油焚きに換装したとされているから、ここで語られているのがこの船であったとしたら豪州から帰ってからそれまでの石炭焚きから油焚きにどこかの造船所で改造したことになる。1960年に第一汽船が中央汽船と合併して第一中央汽船所属となるが、1962年6月に大阪商船に売却されてそのまま解体されている。多分計画造船のスクラップアンドビルドのためではないだろうか。
こちらのサイト、New South Wales州立図書館の写真ライブラリーには1952年にNew South Wales州Newcastleで撮影されたと記録されている日本の船「Orient Maru」の写真がアップされている。船首側から見ているので船名の「おりえんと丸 Orient Maru」は読み取ることが出来るが、ファンネル・マークや船籍港名はわからない。多分船への興味から撮影されたものではないのだろうということを読み取ることが出来る。何も積み卸し作業もされずにただ係船されているように見えるのだけれど、のちにNewcastleでどの様なことが起きていたかが新聞記事で判明した。
 さて、たまたま1952年の新聞記事を検索していて見つかった記事を日付順に並べてみよう。下記記事はすべてタズマニア州のホバートで発行されているThe Mercuryという新聞のマイクロフィルムタスマニア州立図書館・ホバートで検索して見つけたものである。尤も今だったら豪州大使館の図書室に行ったら検索できるのではないかとも思うけれど。

520116 p.13 The Mercury 港湾労働者日本船作業に従事する意向

 港湾労働者連盟メルボルン支部秘書であるクラーク氏は本日、メルボルン港湾労働者は日本籍貨物船「おりえんと丸」が木曜日に入港したときには就労する意向であると語った。「おりえんと丸」は戦後初めてオーストラリアに入港する日本船である。同船が接岸すれば、代理店、マクドナルド・ハミルトン社が船長と乗組員の上陸について協議する。乗組員は全員日本人。
 多分この日付以前に本船の来航に関連する新聞記事が存在するのではないかという気がする。「あの(敵であった)日本から船が来るのだけれど、本当に入港させて良いのだろうか、われわれはどの様に対応するべきなのか、港湾労働者はどうするのか、といった記事が書かれていたのではないかと推察される。

The Mercury 520126 p.12 バットを構えた日本人

 戦後初めてメルボルンに寄港した日本船「おりえんと丸」の乗組員はノース30岸壁で野球をするために上陸を許された。里中三等航海士はキャッチャーで白戸事務員がバットを構えている。日本人は港内にいる間は船内に留まることとされている。
 この記事には良くあるように里中(記事中には「Third officer Mr. Satonata」と書かれている)航海士は座ってグローブを構え、白戸事務員「clerk K. Shirato」が打者よろしくバットを構えた写真が掲載されている。日本人はどこに行ってもすぐに野球をやるというのは抵抗がないが、私は豪州人が果たしてこの頃野球に興味を持っていたのかとても不思議だった。というのはシドニー・オリンピックで野球が行われるまでシドニー地区には本格的な野球場なんてものは存在していなかったくらいで、豪州人は野球をやる日本人に違和感を感じたのではないだろうかという意識を持っていた。もうちょっとよく調べてみないとわからないけれど、戦争中、日本軍にフィリッピンを追われたマッカーサーブリスベンに駐留したわけだし、シドニー・オリンピック前でもソフトボールは普遍的に楽しんでいたし、リトルリーグはあったから知らなかったわけではないだろうとは思う。しかし、ほとんどの豪州人はほとんど野球なんてやらなかっただろうに。
そして翌月にはやっぱり事件が起きた。

The Mercury 520219 p.12 元戦時捕虜が銃を持って日本船に乗船、警察発表

 アデレイド(南豪州)月曜日発 日本軍に捉えられ戦時捕虜となっていた過去を持つ男がズボンの中にライフルを隠し、24発の銃弾をポケットに隠して乗船したとポート・アデレイド警察が本日発表した。警察によるとこの男は「私は戦時捕虜として3年半を過ごした。そしてかれらは私の頭をライフルの銃床で殴りつけ、何人かの仲間は殺された」と証言したといい、「船長に話をしようとした、彼の話によっては納得できなかったら何人かは撃つつもりだった」と説明したという。男はヒルトップ・ハリソン(54)で、Mile End、Henly Beach Roadの自営業者。判事はハリソンを明日まで拘束し、この事態についての反省を求めている。「市民がリンチの手段に訴えることを許すのだとしたら私たちは無法状態に戻ってしまうことになる」と判事は発言している。
 そこまでこうして銃器を持ち込むことが出来たのにも拘わらず、彼は問答無用でそれをぶっ放すことをしていない。彼が戦時捕虜として日本軍の傍若無人ぶりに晒されていた当時、彼は多分45歳くらい。若くもない。良く生き残ったものだ。それでもまず話をして、その結果として許せないものであれば行動に出ると決めていた、というところがただ単なる乱暴者ではない、なにか違うものを感じさせる。どうやら事件はこれだけではなかったらしく、同じ日の同じ頁にこんな記事も出ている。

The Mercury 520219 p.12 船員捕まる

“Randsdorp”という船の二人の船員が土曜日に日本船「おりえんと丸」の係船ロープ2本に損傷を加えたという疑いで拘束されている。二人はKeith John Le Leu (25)と Michael Peter Godsell (19)である。
「おりえんと丸」の若林船長(Capt. Wakabay Ashiとされているが「若林」だと推察できる)は本日、日曜日に出港までの間に本船をご覧になりたい方については歓迎だと表明している。
 実際の話、どれほどの被害をこの二人が与えたのかについては詳細は全くわからないけれど、25歳と19歳の二人は終戦の際には18歳と12歳。先の戦時捕虜になっていたという男性に比べれば多分個人的な体験に基づく仕返しという発想と云うよりも周囲の対日感情に乗って、ちょっとしたノリで手を出した、ということではないかと推察することも出来そうだ。
本件は豪州の連邦国会でも話題になった模様である。

520223 p.2 The Mercury 日本船員見張る

 キャンベラ発 金曜日 公安はアデレイド港での「おりえんと丸」の日本人船員の活動を注視しているとメンジース首相が表明。グラハム下院議員(New South Wales州選出自由党)の質問に答えてメンジース氏は公安は、以前は敵であった、あるいは敵となりえる国籍を持つものが豪州海岸線の写真を撮影するという問題を常時監視していると発言したもの。ポート・アデレイドの事件は大げさすぎるとしている。
 ここで注目するべきはただ単に「過去に敵であった」日本といっているわけではなくて、「敵となりえる」日本ともいっている点である。まさに気を許してなんかいない様子が手に取るようにわかる。

The Mercury 19520301 p.1 日本船の被害

 アデレイド発 金曜日 「日曜日に郊外をぶらぶらして写真を撮る以上に日曜日に奴らにやらなきゃならないことをたくさんにしてやろうと思った」とKeith John Le Leu (25)は斧でもって日本船「おりえんと丸」の二本の係船ロープを切った。「Ransdorp」の乗組員であるLe LeuはMichael Godsell(19)と同時に故意に悪意を持って与えた被害に対して拘束されたが、本日アデレイド警察法廷でこれを認めている。ジョンストン(S.M.)がこうした船員による加害行為に対しては5ポンドの科料というのは全く不十分だと表明したが、加害者のLe Leuは他の国籍のどんな船に対してもこんなことはしたことがないと発言。判事は二人に自らの罪を考えるように再拘留を指示。
 非常に慎重な対応をしているというイメージがわく。実際に現地がどうだったのか、という点はわからないにしても、記事を読む限り、理不尽に「おりえんと丸」が扱われているという雰囲気がしない。

The Mercury 520304 p.1 日本船の作業を指示

 メルボルン発 月曜日:ニューカッスル港でストライキ中の記録員は本日、日本船「おりえんと丸」の仕事を再開するようにと豪州労働者組合(ACTU)委員長A E Monkが指示。組合の全国幹部は本日議論の末、シドニーの事務員組合の連邦秘書(Thorne氏)と午後おそくに電話にて連絡を取ることを決定した。
 事務員側は当初作業を拒否、他の雇用が図られる場合本船に対して非難すると宣言。Monk氏は今夜Thorne氏は彼自身もNSW州支局も争議について報告を聴いていないとしていたことを表明。しかしながらNewcastle出張所に直ちに連絡を取ってMonk氏に後ほど報告する予定という。
 とうとうここに至って現場の作業員が臍を曲げている。このお陰で上述したNSW州立図書館所蔵の写真が妙に静かな佇まいで係留されていたことの理由がわかろうというものである。もちろん、この時期はまだ夏で、日も長いので作業時間が終わった後の撮影であればそう見えないこともない。

The Mercury 520305 p.3 日本船作業再開

 シドニー 火曜日:日本船「おりえんと丸」のニューカッスルに於ける今朝の記録事務員のストライキ、当日遅く作業再開決定 全豪労働組合(ACTU)の委員長、Monk氏の作業再開指示によってこの決定がなされた。会議によって決定されたことは昨日の作業中止によって組合員は連邦組合は、これから何隻もオーストラリアに向かってやってきている日本船の積み卸しに関して方針をハッキリさせることを決定した。今回の会議でのいまひとつの決定は豪州繊維産業に雇用上の問題を招く日本の繊維製品の輸入に関する抗議を連邦政府に対して行うというものである。
 ことここに至って「おりえんと丸」が日本から運んできた積み荷の中に繊維製品が含まれていたことがわかる。今だったら豪州に入ってくる繊維製品は中国、マレーシア、インドからだろうが、戦後すぐには日本は軽工業製品の供給源であった。