ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

高校時代

 昨日の高校の同窓会で思い出したことがいくつかある。
 クラブ活動なんだけれど、私は毎年のようにいろいろなクラブに首を突っ込んでいた。一年生の時にはESSと放送研究会の二股だった。英語に力を入れていたから全く何も考えずにESSに籍を置いたのは良いけれど、周りはみんな女子だった。男子が一人もいない。元々高等女学校だったのだから、僕らの学年も女子300名、男子200名で少なかったのは事実だけれど、それにしても男子が一人もいないのには驚いた。当時英語に傾注するなんて男子としてはあんまり格好良くなかったのかもしれない。そういえば、二年生の時に数学を諦めて(つまり国公立受験を諦めるということになったのだけれど)英語に傾注するんだといった時に親父が「そんなもので飯が食えるか!」といったことがある。学校でもどの教師だったか忘れたけれど、「もっと普遍的に強化に取り組んだ方が良い」といった教師がいた記憶がある。多分当時の雰囲気としては、男子一生の仕事ではないと思われていたということではないだろうか。それから、私もこれでは飯が食えないのかと思ったのかもしれない。だから、外国語系の学部をひとつも受験していない。つまり、この時点で世の中に迎合したということがいえるのかもしれない。そんなことをしていないで、原語にとんがって取り組んでいれば良かったのになぁと思わないでもない。
 そしてもう一つの放送研究会だ。こっちは男子も女子もそれほどいたわけではないけれど、半々くらいいた。で、なぜか知らないが、放送劇のキャストに組み込まれていた。ここは技術系の人たちとしゃべり系の人たちに概ね別れていたけれど、今から考えてみるとかなり「オタク」っぽい世界だったといって良い。オーディオに詳しい人は当然いて、朝礼がある時は朝早くから音響装置の設営に行かなくてはならないのだけれど、先輩の中には部室で珈琲を入れたり、屋上で煙草を吸ってきたりしている人たちがいて、大人だなぁと畏れあこがれたものだ。しかし、よく考えるとたった1-2歳の違いでしかないのだ。このサークルには3年になってもつかず離れずでいたような気がする。三年間同じクラスにいた友達もこのサークルに関わっていて、二人で良く朝礼の前後に校庭でマイクの設定、機器のスウィッチングなんてことをやっていた。
 ちょっと話は横道にそれるのだけれど、この友人はとてもユニークな人で、何しろ絶対音がとれて、ギターのチューニングなんかは自分の耳で全部出来てしまう。もちろんピアノが弾けて、当時からポップス的な曲を作曲していた。それなのに、なぜか自宅の庭には体操(当時僕らは器械体操と呼んでいたけれど)選手が練習するようなワイアーで張った高鉄棒があって、彼は手のひらにはめる革手袋のようなものをつけて、ぐるんぐるんと大車輪をやっていた。今考えても、ピアノと鉄棒を両立させていたのは聴いたことがない。おかげで、体育の時間に校庭の端にあった高鉄棒で教師のリクエストにこたえて、彼はクラスの女子を前にして、勇躍ぐるんぐるんと回ってみせるのだった。そのあとにその教師と敵対していた私は同じように女子を前にして、蹴あがりすら出来ないまま、ブラァ〜ンとぶら下がったまま、醜態をさらしていたのだった。あの教師とは最後まで融和することがなかったから、名前も覚えている。
 三年になるかならないかの頃、いつどこで知り合ったのか全く記憶にないのだけれど、一年下の小柳君という男子生徒が私に「落語研究会を立ち上げましょうよ!」といってきた。顧問がいないとクラブを造れないのだけれど、国語の先生が喜んで受けてくれるといっているし、二年生の車の修理屋の某君も来るといっているからという話だった。そりゃ良いやと、すぐさま賛同して、二人してその先生のところにお願いに行った。最後の一年間はその落研とクラスの仲間で密かに立ち上げたバンドのことで遊び回っていた。つまり、私の高校生活は「よい子」でいることと決別をつけた、という点で大変に有意義な時期だったのだけれど、それと引き替えに第三者から評価される人生を送ることを捨てたという点でも画期的だったと思うことにしておく。ま、はっきりいって能力が足りないことを指摘されるよりは、素直に能力のなさに甘んじたということか。ま、平たくいうと、努力をしなかった、ということでもある。
 本当に努力という言葉とは無縁だった。